*1:まさかこんなに長くなるとは・・・。
イベント開始
斎藤環氏と玄田有史氏の対談で始まる予定だったのだが、斎藤氏は別イベントのため遅れて来るとのことで、最初は玄田有史氏のみの語り。
以下、少しずつ「ニート」の説明。
「働く気がないというより、働こうという意識が強すぎてかえって働けなくなっている」
「仕事を探すところまでいっていない、働くことに希望が持てない人たち」
「『自分は社会に必要とされていない』と考えている人たち」
「ひきこもりではないニートもいる」
「『ニートはゆとり教育のせい』という声もあるが、『なぜニートが増えているか?』という質問には、なるだけ『わからない』と答えることにしている」
このあたりで、斎藤環氏登場。
斎藤環氏と玄田有史氏は、ともに内閣府の「若者の包括的な自立支援方策に関する検討会」に名を連ねているのだが、会合では一度も顔を合わせたことはなく(片方が来ると片方がいないらしい)、直接会ったのは雑誌『Voice』(2004年12月号)での対談*2のみで、今回が2回目とのこと(かなり意外)。*3
*1:後日(4月16日)のイベントによると、きっかけは小杉礼子氏のグループにいた、沖田敏恵氏(同志社大学)の論文だったとのこと。 【参照1】、【参照2(PDFファイル)】
*2:対談タイトル:≪「ニート」は世間の目が怖い――働くことも学ぶことも放棄した若者四〇万人の実情≫。この対談はぜひ入手して読みたいのだが、私はイベント時には未見。(某氏から、「イベント前に読んどけ」との声。ごもっとも・・・)
*3:4月16日の大阪でのイベント「若年無業者の実情と支援を考えるフォーラム」で、また同席されるらしい。
権威性と立場
斎藤:「語の発案者の影響力は考えなくちゃいけない。ゆきがかり上わたしは『ひきこもり』という語の発案者とされていて、玄田さんは『ニート』の発案者ということになっている。すると、私たちの厳密な意見や思惑とは別に、語そのものや私たちの発言を利用しようとする人たちがいるわけで、私や玄田さんはそのことに自覚的でいる必要がある」
斎藤:「ひきこもりやニートについて、肯定論と否定論の『両論併記』をする必要がある。が、私たちの言説を利用する人たちは、『斎藤がこう言っていた』などと、肯定論と否定論の『どちらか片方の説』を自分の陣営のために利用する」
身に帯びてしまった権威性に自覚的に振る舞いましょう、ということだと思う。
斎藤環氏は、引きこもりをめぐる啓蒙活動において、そうしたご自分の機能にかなり自覚的に振る舞ってきたかただと思う*1。
玄田:「先日、村上龍さんと対談でご一緒したが、もうすぐ新しい小説が出るらしい。『半島を出でよ』というタイトルで、北朝鮮が攻めてくる話らしいのだが、そういう小説を書くと必ず『あなたの政治的立場は?』とか『天皇制についてはどう思いますか?』といった質問を受けるが、『自分は立場を明らかにしないのだ』とおっしゃっていた」
これに続けて玄田氏は、「私もそういうスタイルだ」と言ったように思うが、違うかも。*2
「治療」と「支援」
雑誌対談時、「ひきこもりは『治療』の対象で、ニートは『支援』の対象である」という言い方が斎藤環氏から出ていたらしい。
報告者である私(上山)は、以下への議論のつながりがよく理解できなかったのだが、
斎藤:「治療と支援の違いは、価値観の提示の有無」
「治療」と「支援」で、価値観提示があるのはどっち?・・・・
「親から子への価値観の提示は、早い段階でしたほうがいい」と両者。「○○だけはしてはいけない」とか、「どんな仕事をしてもいいが、△△にだけはなるな」など。そうすれば反発もできる、と。価値観提示のない真空状態がまずいのでは、と。
玄田:「昔は食べていくのに精一杯で、考える余裕がなかったが、今は『好きなことをやれ』と言われる。これは実はかなりつらい。『何をしてもいいが、個性的であれ』というが、その『個性的であれ』というのはものすごい要望だ」
やりとり
斎藤:「ところで玄田さん。・・・・やっぱ働かなきゃダメですか」
玄田:「なんてこときくんですか(笑)。楽しければいいんじゃないですか。私は最近、『一番好きなことは何ですか』ときかれたら、『打ち上げです』と答えることにしている。働いていると楽しいこともあるから、働いた方がいい、ということなのでは」
よく覚えていないが、斎藤氏から「それは反論ありそう」的なコメントがあった気がする。
お詫び
パネラーとして出演中、ずっと「自分は何を話すべきか」を考えていたためか、他の皆さんが何を言っていたか、その順番がどうだったか、よく覚えていません・・・。
なのでここからは、前半以上に、「ルポ」というより「感想文」、というか「上山が言いたかったことの個人的確認メモ」とお考えください。たぶん、自分の発言の再確認ばっかりになります。
【追記: 書き上げてみて気付いたのですが、私は、自分と玄田有史さんの発言以外、ほとんど覚えていない・・・・。自分で引きました(汗)。斎藤環さんは司会だったので発言量自体が少なかった可能性がありますが、岩田充功さんはかなり笑いを取っていたし、喋っていたはず(すみません、岩田さん・・・・)。 ▼横浜市はイベントを録音していたようですが、イベント記録は公式には公表されないのでしょうか?】→【冊子化されました】
課題設定のレベル分け
斎藤氏から、≪働かなければならない≫という道徳についてどう思うか、ひきこもり状態経験者の2人に質問。(岩田氏が何と答えたかは失念)
上山:「『社会保障が破綻するから若い人は働かなければならない』というレベルの話と、個人として『お金がないから働く必要がある』というレベルの話とは、分けて考えるべき」
「道徳」レベルと「経済」レベル
上山:「個人としては、≪働かなければならない≫には道徳レベル(「真人間は働くべきだ」)の要請と経済レベル(「金がない」)の要請があるとして、追い詰められた最後の段階で問題になるのは後者*1。 ▼親御さんはたいてい、ひきこもり初期の段階では前者を強調するが、長期化し、『これはただごとではない』と気付くに従い、話が後者に移行してゆく。ひきこもり状態にある人は、『このまま閉じこもっていたら死ぬしかない』という状況になっても、出られない可能性がある」
「大人になれ」という命題についてどう思うかも、斎藤氏から質問される。「成熟する必要はあるか」。
岩田氏がまず答えたが、失念・・・。
上山:「生きることが出来さえすれば、成熟する必要はないのでは」
この前後に私がしていた話は、以下のような感じ。
上山:「10億円資産があれば、働く必要も成熟する必要もないのでは。逆に言えば、『このままでは、経済的にやっていけないから』という部分にこそ、『働く』や『成熟』の必要性の核心がある。 ▼道徳レベルと経済レベルは分けて考えるべきなのだが、ややこしいのは、就労の入り口の段階で、道徳的人物評価が選別要因になるということ。つまり道徳レベルで得る評価が、各人の経済事情に直結してしまう。カネがあれば『俺の勝手に生きる』でいいが、貧乏な人は『世間様の道徳』を無視できない。」
ここに、「履歴書の空白」の問題もあるんだと思う。
イベントではしなかった話だけど、現時点での補遺
オタクの人たちにも「成熟しなさい」と説教された時期はあったと思うが、独自の(フェティッシュの)流通体系を生み出すことで雇用を生み出し、あるいは物流への関与において経済主体になったことで、「説教」の対象でなくなっていくプロセスがあったのではないか。*2
→ 道徳的糾弾から抜け出すプロセス自体が、きわめて経済的だと思う。逆に言えば、自前の経済世界(生産・物流・雇用)を生み出せない状態で、道徳的糾弾だけに抵抗していても、空しいのではないか。それは、「精神論に精神論で対抗する」話でしかない。
いやしかし、ニート・ひきこもりは何よりも「議論に負けている」ので、言説を生産する仕事は、どうしても必要なのだが。生活レベルでの言説状況を変えることが当事者を元気にする、と考えれば、言説での抵抗作業はそれ自体として支援活動であり得る。
「放置せよ」について
上山:「経済に詳しい人の一部には、次のように言う人もいます。『ひきこもりやニートというが、放置してもたぶん親の金でギリギリ食っていける。もちろんわずかに死者は出るだろうが、どんな社会にもそういう脱落者は出る。わざわざ何百億円も投じて、連中のご機嫌を取る対応策を講じる必要があるのか?』と」
会場では言いませんでしたが、具体的には『SIGHT別冊 「日本一怖いブック・オブ・ザ・イヤー2005」 (別冊SIGHT)』に掲載された、山形浩生氏による『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』書評(p.119)を想定していました*1。
玄田さんは前半の対談で、「社会保障が破綻するから働け、というようなことは言いたくない」とおっしゃったのですが、やはりマクロな視点は必要だと思ったので。
今回も恐らくそうだと思いますが、「ひきこもり」というタイトルのついたイベントでは、参加対象者を限定しないかぎり、聴衆の多くは「当事者を抱えた親御さん」であり、そういう人は「うちの子供のために何が可能なのか」という非常に切迫した要望を抱えており、そういう人たちに「日本の社会は・・・・」みたいな大きな話をしても的を外す。でも、政策論的に「放置すべき」という見解が一部「経済の専門家」の中にあるのだ、というのは、重要な情報ではないかと。
玄田さんは私がこの話をしたとき、強くうなずきながら聞いていました。
「待ち受け」と「訪問」
上山:「行政は、ハコ(建物)や窓口を作るのはうまい。しかし、それは『来てくれればサービスを提供しますよ』ということであって、『来てくれない人』には対応できない。」(神戸でのイベント時のエピソードを紹介しつつ)
「ヤングジョブスポット神戸」では、「行政として、訪問活動はできない」とのことだったが、イベント後に聞くと、今回のイベントの主催である「横浜市青少年相談センター」では、もう年単位の訪問活動をされているらしい*1。 同じ行政でも、企画窓口によって事情が違うらしい。
動機づけ
当事者は、就労や支援施設利用などに向けての≪自発性≫を失っている。自分の命を賭けなければならないような水準で、「この世界にあえて関わるのか否か」という葛藤を生きている。自発的に、かつ継続的に何かに関わっていくのが限界的に難しい、というかインポテンツ(無能力)の状態。
そこで斎藤環氏が、私のブログ活動(このブログです)に言及してくださり、「自発性や継続性が困難なはずなのに、どうして続けていられるのか」と質問くださる。
斎藤:「ブログ全体の原稿の分量は、出版された本より多いですよね」
上山:「何冊分にもなります」
斎藤:「一銭にもならないのに、あれだけ書き続けられるのはなぜですか」
上山:「・・・・強いて言えば、『怒り』でしょうか・・・・」
玄田:「その怒りを、仕事を通じて社会につなげられないかな」
(いずれも大意)
このあたりは、常に自分でも葛藤している。
私はこれに続き、滝本竜彦氏の小説に「敵がわからないのが苦しい」というモチーフがあるらしいことに感銘を受けた、と話した。
受け身と必然 (受動的脱落と、能動的選択)
「自分がその仕事に就くことの必然性」という話。
上山:「私は不登校や引きこもりの状態になったのは、望んでなったわけではない*1。 ▼中学で不登校になったときには、本当に恐かった。このまま学校に行けなければホームレスになるしかない、でも自分にホームレスはできそうにないから、『野垂れ死ぬしかないのだ』と本気で考えていた*2。 でも、行けなかった。 ▼私は現在の活動について、『もうやめよう』ということを毎日考えるが、自分がこの問題に取り組むことの必然性も感じている。その辺りの事情を常に考える。継続可能性との関係において。」
身も蓋もないが、「死にたい」という気持ちに囚われて身動きできなくなる時間や日々は、今でも非常に長い(こうした時間には、勉強やBLOG更新はまったくできない)。自発性のエネルギーが、「安楽死」以外をどうしても目指せなくなる時間もある*3。
「慣れる」
斎藤:「いろんなことに『慣れる』必要がある」
上山:「何かに『慣れる』ということは、『意識しないでもできる』ということだと思うんです(多くの人が、右足と左足の筋肉をいちいち意識しないでも歩けるようなもの)。 一方、『できない』人は、できる人が意識しないでもやれる動作や行動をいちいち意識してしまう。で、意識しすぎるからやれなくなっている、という面がある」
できないまま意識しすぎることによる、恐怖感の肥大。
「アソビ」
玄田:「仕事のできる奴というのは、よく見るとアソビが多い」
「遊べる奴のほうが仕事ができる」という意味かな、と思ったけど、そうじゃなく、「いっぱい、いっぱい*1じゃない」という意味だった。
そうすると、「いっぱい、いっぱい」になってる今の俺は、「仕事のできない奴」だ・・・・。
しかし、言えてるかも。
*1:『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』に登場する、「ニート当事者の口にするキーワード」
「コミュニケーション能力」
玄田:「『コミュニケーション能力』というのは、相手の言うことが分からなくても『ええ、ええ、そうですね、ええ』とうなずける能力のこと。」
会場笑い。
「いい加減になるための、厳密な証拠」
玄田氏:(工藤啓*1氏のお名前などを出しつつ)「支援者の人たちと関わるようになってから、必死に『いい加減になろう』と思うようになっている」
これに続き、玄田氏から「いい加減になろう」という提案(?)があった気がしたので、私から次のように要望。
上山:「“いい加減”になることができない理由の一つは、『それでは生きていられない』という恐怖心です。だから、『いい加減でいいじゃないか』ということを、単なる精神論ではなく、数字で示してほしい」*2
つまり、「いい加減でいられるための、厳密な証拠が欲しい」ということ。
というか、「いい加減になることができない」という強迫観念の出所を、もう少し精査する必要があると思う。経済面と精神面について。
「理想像ではなく自分の足元を」――採用基準としての「人柄」?
ひきこもりやニート状態の経験者が、就職活動時の履歴書提出において必ず悩まされる「履歴の空白」について。
斎藤:「岩田さんと上山さんはどうアドバイスされますか?」
岩田氏は、ご自分の体験について話されていたと思う。(すみません、これも失念・・・)
次に私に振られたのだが、私は自分では答えず、そのまま右を向いて玄田氏に意見を求めた:「どうすればいいでしょう?」
上山:「いや、アドバイスも何も、自分の問題なので・・・」
玄田:「『企業は即戦力を求めている』とかいうのは嘘で、企業は『“いい奴”は採りたい』と思っている。履歴書は基本的に正直に書けばいい。ただ、自分がその企業に『どうして応募したのか』については、徹底的に書くべきだ」
上山:「『採用される人物像』について、(資格やスキルが凄いなど)なんだか『雲の上の人』というイメージが強烈にあるのですが、むしろ『自分の足元を見ろ』ということでしょうか。」
このあたりのやり取りも、私が玄田さんの説明に「ホントですか?・・・」というような不信感に満ちた態度(沈黙)を示したからか、客席からは笑いが漏れていた。
それに対して
玄田:「誰も読んでくれない『ジョブ・クリエイション』という本があるんだけど*1、それの第8章を読んでください。『人を育てる企業が生き残る*2』と書いてます!」
「安定」とは
「若い人が、『どういう就職先がいいか』と問われて、『安定しているところ』と答える」ことの理不尽さ(?)について、玄田氏が苛立たしそうに、しかし極めて真摯に語られた。かなり核心的なお話だと思ったのだが、残念なことに詳細を覚えていない。だいたい次のようなお話だったと思う。
玄田:「保証がなく、将来を予見できない状況で、つねに『最悪の事態』を想定し、自分の最善を尽くすこと。それが『安定』だよ!」
「それが安定だよ!」の瞬間、横の玄田さんと目が合ったのだが、≪安定≫をめぐる倫理と経済の融合した主張に、ちょっと感動してしまい、自分で慌てた。
「驚き」
上山:「大阪のある引きこもりの親の会で初めて体験について発言し、それが好意的に受け容れられたことがその後の社会参加や仕事につながっていったのですが、こんな展開になることは、5年前には全く予想できませんでした。」
玄田:「『驚き』があったんだ」
実際、2000年6月(だったはず)の親の会でのカミングアウト時は、「言ってしまった・・・・」という感じで冷汗タラタラだったのに、話が終わったときの会場の皆さんの反応は、あまりに予想外だった。
(言葉を代えれば、あの時あの場所におられた皆さんに、「感謝している」ということです・・・。)
上山:「でも、こんな仕事、アルバイト情報誌に載ってないんですよ」
(岩田さんがギャグ的にツッコミ入れてくださる。会場笑い)
「そんな回路があったんだ」
上山:「ひきこもりの問題について人前で話をしたり、文章を書いたりする能力を褒めてもらうことがあるが、そういうことをする能力が自分にあるとは、それまで本当に思っていなかった。というか、そんなことで頑張っても誰も評価してくれないよ、と。」
自分で気付けずにいる、意外な「評価の回路」と、それへの自分の能力と。それに気付くのも、やはり「出会い」としか言いようがないと思う。
完全に閉じこもっている人は、そういう出会いのチャンスからすら疎外される――と同時に、それまでの人生経験や対人経験に食中毒を起こしているので、「二度と誰にも出会いたくない」という拒絶もある。二重三重に、「つながっていく機会」から排除されている。
「優秀さ」の選択肢?
これに関連して少し気になったのは、「できなくても受け入れてよ」みたいなニュアンスが、当日の私の発言にあったのではないか、ということ。
上山:「『やりたいことを仕事にすればいい』というが(『13歳のハローワーク』など)、イチローなど、あまりに飛び抜けた存在を想定しつつそういう話をされても困る」
しかしその一方で、私は一部の当事者や支援者から、「エリート主義」などと言われる。「できなくてもいいじゃん」とは言わないから。「自分は自分で、自分なりの優秀さを目指したい」なんて言うから。しかし、偏差値信仰のモーレツ主義(古っ)が問題なのは、「価値軸が一本しかない」からで、「評価しちゃいけない」ってことじゃないと思う。
先日NHK教育テレビで、上野千鶴子氏が『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』について喋ってて、すごい元気もらったんだけど、そこでは「障害者の自立」について触れられてて、それとの関係を考えるとまた微妙なんだけど。「他人に依存しないと生きていけない人の自立」という問題。
この辺は「優勝劣敗」(ネオリベラリズム)や「自立とは何か」などとも結びついて非常に重要かつ複雑なので、イベントルポという今回の場ではなく、また後日あらためて。
【質問2】:上山さんの活動デビュー時のように、「体験」の機会を増やすことで、どうにかならないか。
ここで私のほうから、玄田さんの『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』がきっかけになって、日本全国で「14歳のための就労体験学習」が準備されているお話を振る。(玄田さんから「○月から実施」と情報があったような。失念。)
ただ、私はこれについて、一部の議員などが主張する「体験主義」や、ニート批判派に繰り返し回帰する「自衛隊に入れろ」論を紹介し、議論が安易に流れる危惧も口にした。
【質問3】:短期的な就労支援だけではなく、長期的なかかわりも必要ではないか。
貴戸理恵氏*1の通われていたスクール*2のかただという。「1日外出すると3日家にいないとダメ、というぐらいに辛くなっている人たち」など、極めてリアルな、現場の感覚に満ちたご質問だった。
上山:「ある支援団体の代表の方に聞いたのですが、かなりの高確率で、当事者は『ここで雇ってもらえないか』と言うそうです。『ここで生まれて初めて人間関係がうまくいった』と。就労問題にとって、『人間関係』が、最も重大な悩みなわけです*3。 ▼スタッフや仲間との信頼関係がある団体の中でなら、かなりの重労働でも耐えられる。しかし見ず知らずのコンビニのバイトだと、ちょっとした棚整理の仕事すらできない。そういう事情があります。――お返事になってないですが・・・。
玄田:「なってるなってる」
これについては、「中間集団」と「中間人材」のちがい、として説明できないでしょうか・・・・。
「中間集団から中間人材へ」というスローガンとか。
*1:『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』著者
*2:団体名をおっしゃらなかったのですが、どちらでしょう?
*3:『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』でも、それが強調されていた。
感想・閉会
司会の玄田さんから、経験者の2人に「最後の感想を」。
岩田さんは、ここでも笑いを取ってたような。(すんません、このときも自分のコメントのことを考えてて、ほとんど覚えてない・・・)
上山:「今日のイベントでは、笑いがありました。 ▼ひきこもりの重要な問題に、『当事者・親・支援者のそれぞれにとっての、≪継続の難しさ≫』という問題があります。当事者は継続就労がどうしてもできない。親は、精神的・経済的に疲弊してしまって、扶養や支援を続けられない。支援者は、ひきこもりの問題に関わることによってたいへん強いストレスに晒されます(大阪のある施設の初代代表は、40代で亡くなってしまいました)。 ▼つまり、「続けていけること」(sustain-ability)が極めて核心的な課題なのですが(私自身個人的にそうです)、≪笑い≫というのは、その際に重要かもしれない*1。そういうヒントを、今日は皆さんから頂いたように思います。今日は、本当にありがとうございました。」
すみません、今かなり作文しました(笑)。でも言っていたのは、このままの内容だったはずです。
(今日のルポ全体に言えることですが。)
最後に玄田有史氏から、しっかりした閉会挨拶。なんと、この内容をぜんぜん覚えていない・・・・。「自分の役目が終わった」ことで、すでに放心状態だったかも。
盛大な拍手。閉会。
*1:娯楽性と批評性の緊張関係については、あらためて考えてみたい。娯楽性がなく、「継続できない批評性」というのでは、どうしようもない・・・・。
「ひきこもり・ニート」への対応の地域格差について
一般的には、横浜と神戸は街のイメージが似ている気がしますが、行政による訪問活動の有無など、対応の環境や雰囲気には、かなり差があると感じました。
たとえば社会学をなさっているかたが、日本中の「ニート・ひきこもり支援」の地域格差について、フィールドワーク的(?)に調査・研究発表する、というのはあり得ないんでしょうか。
現場的に、そういう比較情報は極めて重要だと思うのですが、すでに為されているお仕事としては、
- 個人では永冨奈津恵氏の活動が唯一無二に思え*1、
- 集団では「プラットフォームプロジェクト」*2、
- 書籍では『全国ひきこもり・不登校援助団体レポート 宿泊型施設編』、『ひきこもり支援ガイド』
などがありますが、いずれも「こういう支援がある」という具体情報だけで*3、地域格差の理由についてまでは踏み込んでいないと思います。
地域独特のメンタリティの問題とか、同じ行政のはずなのにどうして違いが生じるのかとか、興味深い論点はたくさんあると思うのですが、いかがでしょうか・・・・・っていうか、激しく読みたいんですが。
ふぃ〜
ちょっとしたメモで終わらせるつもりが、書いているうちに記憶がつながってダバダバ出てきて、途中で「この作業はいつ終わるんだ?」と恐くなりました。続けてるとまだ出てきそうな気もしますが、きりがないのでこの辺で。というか、「対談+ディスカッション」の公式記録の発表を待望します。
ともあれ、今回のイベント関係者の皆さん、そして、このルポを読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!!