【「ひきこもり」の30年を振り返る (岩波ブックレット1081)】読了



著者のお三方と私は、以前には何度も面会ややり取りがありました。*1

私としては2008年の『ビッグイシュー』での一件がどう扱われているかを知りたかったのですが――言及はありませんでした。それはひどく残念でしたが*2、そのことも含め――ある種の諦めというか、「分かってもらえないことが分かった」*3というか――ひきこもり問題や当時の関係性について心理的な距離をとるのに役立つ読書でした。もうあれこれ言ってもしょうがない、というような。

斎藤環氏は「対話するしかない」というのですが(p.45)

自分の問題意識をていねいに言葉にしただけの私は斎藤氏によって排除され、その排除の理由は言語化されていません。まったく不当な排除の暴力がそのままになっています。わざわざ対話という話をなさるなら、それは指摘せざるを得ません。

本書では当事者の話を「とにかく聴くべき」というのですが

私にとって決定的だった2008年の出来事は、関係者に「聴いてもらう」ことがほとんどないままです。支援者・研究者からも、そして "当事者" からも無視され続けています。"当事者" も「聴く側」であるのに、本書での "当事者" はまるでずっと「聴いてもらう側」であるかのように位置づけられている、その片務性が気になりました。私自身も「聴いてもらえない」を問題にしつつ、「聴く側」の任務も負う場面があるわけです。

「政治的」と「技法的」

本書では「ひきこもり」について、(1)実存的な問題 という面と、(2)普遍症候群的な問題 という面が語られたのですが――私はそこに、(3)政治的 および (4)技法的 という切り口を追加で提案したい。

けっきょくそれぞれの人は、自分の価値観に合いそうな集団に合流していくしかない。仮に思想が合えば、何らかの宗教団体や政治団体に合流するのもOKでしょう。しかし逆に言うと、「合わないものは合わない」。そこには政治的としか言いようのない葛藤があって、これは集団参加において致命的に重要なポイントのはずなのに、論題としてあまりに無視されています*4。以前に私がつながりの作法として論じ続けていたのはこの辺のことです。

また自己管理や集団参加を続けていくには、《技法的》というしかない問題意識を中心に考えるのが良いと思う。(これは私がアルコールをやめ続けるにあたってたどり着いた地点で、短く語るのは難しいですが、結局ここで考えるしかないと思うようになっています。)

個人と集団

林恭子氏の発言:

 実は2000年頃と、2012年頃から現在に至る当事者の発信には、大きな違いがあります。2000年頃の動きというのは、どちらかというと一人ひとりの個人が発信していたんですね。でも2012年頃からの活動は、個人ではなく仲間と一緒に発信している。一人ではなく仲間とさまざまな活動をするという点で、以前のそれとは違っているように思っています。(本書p.11)

なるほど。


「ひきこもり女子会」について、林恭子氏:

 20年余り、わずかながらあった当事者会は、ほぼ男性しか来ないものがほとんどでした。つまり、結果はほぼ「男子会」なわけです。なので、女性に限定したほうが参加しやすいんじゃないか、という思いつきで始めてみたら、延べ人数で5000人という、ものすごい数の女性たちが参加されている状況なんです。(本書p.48)

そうそう、たしかに。性別を限定せずに呼びかけると、ほぼ男性ばかりになってしまってました。
女性だけの集まりを設定した意義は非常に大きいと感じます。

いわゆる「当事者」

石川良子氏:

「ひきこもり」(名詞形)は基本的にカギ括弧をつけて表記することにしました。やや煩雑ですが、このカギ括弧には「いわゆる」とか「《ひきこもり》なるもの」というニュアンスを込めています。「ひきこもり」とはこういうものだという従来の捉え方や先入観をいったん保留し(それこそ括弧に括り)、「ひきこもり」とは何か、どう捉えたらよいのか改めて議論することを求めたいという理由からです。(p.4)

私は《当事者》概念について、まさにそういうスタンスを共有したいです。(それを話題にしたら激怒したのが斎藤環氏だったわけですが…)

ほかにもいろいろ

語りたい細部はあるのですが、それはいつか「ひきこもり」界隈の関係者や著者の皆さんにお会いする機会があったときに、直接話し合いたいと感じています。

ひきこもり問題についてよく知らないというかたは、著者たちそれぞれの意見に同意できなくても、「どういう議論がされているか」を知るにはちょうど良い本ではないでしょうか。分量も90ページくらいで短いですし。



*1:斎藤環さんと私は雑誌誌上での揉め事がありましたが、林さんと石川さんについては別に揉めたりはしていません。

*2:巻末の「不登校・ひきこもりの年表」には拙著が記されていますので、悪意のある無視ではないと思います。(その次の行に「初めて当事者が名前と顔を出して発信した」とあるのは私のことだと思うのですが、改行ミス?)

*3:本書p.68にもありますが

*4:2008年の『ビッグイシュー』でのことが無視される理由の一端はこれでしょう。あるいは "当事者" 同士の関係性においてもその場を支配する思想があるし、そこに合流できなければ干されるわけです。