《弱者性=マイノリティ性=被害者性》の、物神化=資本化
《弱者性》という資本を、
- 「私はその弱者を代表している」という代表権の詐称
- その弱者問題の解釈権の恣意的独占
で独り占めしようとするのが活動家。彼らは弱者性という価値の独占資本を目指す。*1
ひとりひとりの《弱者》よりも、弱者価値の代表権と解釈権をにぎる(と詐称する)活動家のほうが偉いとされる。
誰が《弱者≒被害者》なのかは場面ごとに、あるいは視点の設定によって変わってくるはずだが、活動家は解釈権の独占によって「ほかの考え方」を禁止する。
弱者であることの実態は1秒ごとに移り変わっているが、属性カテゴリ名*2を絶対化しそれを「弱者性そのもの」として物神化することでリアルタイムの実態とは無関係の保護義務を押しつける。*3
「男」「公務員」「日本人」などは弱者性の資本をほとんど持っていないと見做され、どんなに苛酷な状況にあっても無視され、保護やケアの対象とならない。また彼らには、解釈権そのものがないとされる。「○○のくせに」という語で属性が侮辱される。*4
弱者性をカテゴリ談義だけで語る――つまり物神崇拝の相でしか見ようとしないところに差別がある。*5
弱者性や解釈権を、カテゴリ談義の物神崇拝ではなく、いわば使用価値の面でそのつど具体的に検証する必要がある。