論理関係を考えるときには時間を無視している。論理的に考えるといっても論理を瞬時に操ることはできないから、なにがしかの時間を食う。「見比べる」などという簡単な動作ですら、なにがしかの時間を必要とする。まして、時間と共にどんどん変化するものを論理的に考えるのは難しい。論理は時間を捨象するのである。(『幾何学への新しい視点―不確定性と非可換時空 (幾何学をみる)』p.18)
数学は、時間という要因を捨象している。関係式も構造も無時間的な真理を扱うが(時間経過で変化しない真実)、しかし、当の数学的言語は時間的にしか実現しない。「数学を理解する」という営みは、時間的にしか生きられない。時間的にしか成立しない数学言語で、時間の要因を捨象した真理を扱おうとする――そのような知的態度だけで、時間を絶対に捨象できないこの現象世界を扱いきれるだろうか。時間を捨象した理論は、時間的要因を無視しない技法的態度の一部分にすぎないはずだ。*1
この世界の現象も私たちの生も時間の外に出ることはあり得ないのに、私たちはいつの間にか《時間の外にある関係式》でこの現象を処理している。そしてそれは、理系学問として絶大な成果を上げた。
時間を捨象した関係式や構造と、《時間による変化の要因》をどう関係させればいいか。人類はそこでまだ間違った、あるいは原始的な状態に留まっている。
これは、臨床的なテーマでもある。
永遠に変化しないものと《時間的に変化する要因》との関係の作り方が分からなくなって、私たちは生活できなくなる。発達障害や強迫性障害と呼ばれるものの一部は間違いなくここに関わる。私たち自身は時間の外には出られないのに、時間を捨象した契機に留まろうとすること。それしかできなくなってしまうこと。
たとえば、意識的に「無時間的要因」を設定することが生きる技法になり得るし(「形式的禁止」)、実は私たちは言語のかたちで、つねにそういうことをやっている。
*1:時間を無視した理論的態度だけで現象を支配しようとする知的態度は、そうしたおのれの言動と知的道具立てそのものが時間的にしか生きられていないことを忘れている。