疑似科学の傲慢さと、「不可逆の時間」を扱えない科学の傲慢さ

話題になっていたツイートより:



ある学問領域で実績があり、科学論については穏当な見解をもつ論者が、政治経済や差別問題では唖然とするような議論をしていることからし*1、実は「科学か科学でないか」というのは、知的態度にかんする部分的論点にすぎないことが分かります。


「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)



↑この本の邦訳者の1人である田崎晴明氏が、イリヤ・プリゴジン確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決』の書評をされているのですが――プリゴジンを露骨に批判しています。
その書評より:

 時間の矢の問題にしろ、観測問題にしろ、従来の議論を意識的に陳腐化しようとする態度が鼻につく。

 新理論の核心をかみ砕いてできる限りわかりやすく伝えようという姿勢よりは、むしろ華麗な表現と尊大とも取れる態度で自らの偉大さを印象づけようという姿勢



プリゴジンはどこかで、「不可逆的な時間に対する科学者の敵意」に触れていましたが、この書評における田崎氏の敵意は、まさにそれに見えます*2。逆に言うと、時間をめぐる論点は、ノーベル賞受賞者をも怪しい議論に誘い込む。*3


いっぽう、私が困惑しながら取り組まざるを得ない論点は、以下のようなものです。

    • 名詞形「当事者」への疑念と、その動詞化の必要性
    • 主観性や集団をめぐる議論が、「規範論」でしかない現状を「技法論」へ

これは考えてみれば、誤って空間化されたものに時間を導入しようとする試みになっています。


「科学的であればよい」だけでは、活動や議論に不可逆の時間を導入することが出来ません*4。しかし、「不可逆な時間を肯定すればよい」というだけでは、今度は単なる思い込みとの区別がつきません。いくらでもナイーブに、あるいはトンデモ系になり得る。


→不可逆の時間を無視せずに、それでいて妥当な議論を続けるには、
どういう焦点が必要か。私はこのあたりで考えざるを得ません。



*1:2011年3月11日の震災以後、とりわけ左翼・リベラル系の論者に、異様な言動が目立ちます。

*2:ベルクソンドゥルーズなど、科学者から馬鹿にされる議論の多くは、時間論をしています。いっぽうアインシュタインによれば、「過去・現在・未来の区別は、それが如何に執拗なものであろうと、幻なのである」(『確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決』p.138 の引用から孫引き。友人ミケーレ・ベッソにあてた手紙より)。▼科学は、科学である限りにおいて、数学的構造などの「無時間的真実」を扱うように見えます。

*3:プリゴジンは同書で、「時間に始まりはなく、時間は我々の宇宙の存在にすら先行するという可能性は、ますます強まってきている」(p.153)と述べており、ちょっと唖然とします。

*4:自分の正当性を「科学」「論理」に仮託して語る人たちの、時間的変化に対する極端な鈍感さ。――これについては、プリゴジンとも違う議論(言動の技法)が必要なはずです。