思想研究にも実学にも、集合的な技法という意味での試行錯誤がない

思想史の研究と、いわゆる「実学」研究の関係について、
研究者間の論争状態を目にしたので、それを部分的に引用しつつ、*1
既存の政策論や臨床言説に欠けているポイントを記してみます。




以下、提案を含むメモ

  • 思想系にも実学系にも、《現に社会参加できずにいる人が主観的にどういう努力をすればよいか》という議論がないため、それとの関係における思想や政策論を展開できない。多くは、メタな理解と規範意識をこねくりまわすばっかり。*2
  • 「すでにやれているひと」は、自分が出来ているものを出来ている流儀で示すことしかしない。ある基準に基づいた競争にすでに参加しており、あとは業績競争と自慢話、内輪ノリのジョークばかりになる。
  • いわば《素材》《価値》の対立的関係*3が、研究者の議論そのものに現れている。


  • 思想と実学――それを数学工学のような関係で見ているかぎり、何も改善できない。▼数学はそれ自体としてすでに技法を生きることになっており*4、いっぽう工学にも、すでに思想は含まれている。
  • 思想的試行錯誤を経なければ、実学になれないし、(みずからの硬直に気付けないので)
  • メタな「理解」に閉じこもる思想には参照価値がない。(言葉遊びにすぎない)
    • たんなる実学も、たんなる思想も、みずからの前提を問い直せていないがゆえに、みずからの加担責任に気付くことができない。


  • 既存の議論で無視されているのは、《不可逆の時間》*5
  • 不可逆の時間が無視されるゆえに、《技法》がテーマにならない。


  • 「思想研究」にも「実学」にも、また「現場」にも、必要な論点を構成する能力が備わっていない。既存の言説は、技法としてまずいところに陥っている。


(1)すでに生きられている労働の《思想≒技法》
(2)ある思想家が労働をどう見たか
(3)経営学・経済学、それに医学などの「実学

  • 必要なのは、(1)を分析したうえでの、技法の試行錯誤。
  • (2)や(3)は、技法的試行錯誤の一部としてある。思想家や実学を物神化してもしょうがない。


  • 思想家・理論家というより、素材的な技法家が要る。そこでの試行錯誤こそが問われる。
  • 思想・実学・現場は、技法と別の場所にあるのではない。ひとりひとりに《思想≒政策前提≒技法》が、すでに生きられている。それをどうするか。簡単に切り分けられない。




*1:以下に引用した多くのツイートは、拙エントリに必要なものを部分的に取捨選択して時系列に並べただけです。実際には参考文献の提示など、それぞれの議論は細部にわたっていました。

*2:理論も規範意識も、それ自体がすでに技法をふくんだ実務になっている。すべての議論は、自分がどういう技法を前提にしているかを自覚できていない。

*3:佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』p.338 を参照。▼cf.分析の様式は、すでに再編の様式になっている】【「過程の主体としての価値」メモ

*4:精神分析の自説をトポロジーにしたジャック・ラカンを思い出してもよい。ラカンには、人文系の提言を数学に置き換える努力があったが、そこにすでに彼の技法的前提が含まれている。

*5:《不可逆の時間》は、すなわち集団や身体性の問題。どんなに抽象的な理論も、すでに不可逆の時間をあるスタイルで生きている。