論者は「何を」あきらめていないのか

古市憲寿本田由紀希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)』に対する、

これは読めて良かった。*1


事業を共有できないときには、共同性も実現できない。
だからといって《事業目的》は、下心で人工的にあつらえることもできない。真の必然性が要る。
大澤氏はその、真の必然性に満たされた《目的》のあり得なさを言っているが、
必然性をもった事業を用意できなければ、自分は恣意性に浪費されるだけの存在になる。


恣意性による浪費だけがこの生の必然性になる。 それを避けるために、
自分のやっている《理論事業》だけは、真の必然性に紐づけられた事業だと思いたがる。


・・・・社会学者じしんは、《何をあきらめたくないか》が分かっている(そうでないと論文も書けないし本も読めない)。 彼らが研究する《若者たち》には目的設定がないが、論者には明晰な目的意識(勤勉さ)がある。
その目的意識は、被雇用者に与えられたノルマに等しい。「ミッションが制度的にそう決められているから、それに合わせてやりがいを見出さないと仕事にありつけないし評価ももらえない」。そこで評価を得た人間を事後的に見ると、本人の内発性でいつの間にか社会学ディシプリンを選んでいただけの《自覚なき順応者》ばかりになる。しかし、そういうかたちで自覚なき順応者がそこに居ることは、制度的ミッションが正しいことを何も保証しない。順応して鼻高々のナルシストを量産しているが、問題に取り組むための理論ミッションとしてディシプリンを設計し間違っている、ということはいくらでもあり得る。


対象世界で起こっていることと、それを研究して理論化する仕事の態勢が、切れてしまっている。対象世界の抱えている問題に、自分は加担している、という意識がない。医師や学者は単に《論じる側》ではなくて、取り組むべき問題の一部なのだ。


論じる身体だけが、論じられる対象世界に属していない。
対象から切断された論じ方が、私たちの《目的事業》を分からなくさせている。*2

《あるタイプの理論的認識を得たい》という動機づけだけが、不問に(つまりメタに)なっている。*3


自分が何をやっているかに自覚的になれないメタ言説。その生産にまい進するのではなくて*4
集団のさなかで、技法《として》生成する――私という完成形が技法を「使う」のではなく――
その技法が適切になるための模索が要る。





ここまで書いて、しかし合意形成の問題はそのまま残っていて、

  • そもそも必然性のある目的と言っても、それは個人としては強固でも、集団的に合意されなければほとんど機能はしない。またジャン・ウリやグァタリを参照する既存の制度論においては、意思決定論は「難題とされている」というよりは問題設定そのものとして《存在してはならないもの》になっている。だからこそ、検閲のような振る舞いも成立し、その上でそれが「なかったこと」にされる。一党独裁的正しさが支配した場では、意思決定の問題は《存在しない・してはならない》。 政治空間において、ある論点そのものが抑圧される。その構造にこそ注意が払われねばならない。*5
  • たとえば過労は、単に数値上の問題ではなくて、《意味のないミッションが固着されている》、そのことを問題にしなければならない。そしてそれは、法律のような強制力なしに話題にしてもほとんど意味をなさない。そしてさらに、その法律を制定するには集団的合意が必要だ。その合意をもたらすための理論が、すでに集団的錯誤に支配されている。
  • 問題があることがこれほど明らかなのに、それでもメタ言説が維持される理由には、《頭の悪い人も抑圧のヒドい人も説得しやすい》がある。つまり言説事業には、合意形成に都合がよい、という俗世的理由がベタに入り込んでいる。
  • 《本当に丁寧に考えてしまったら、バカを説得できない》――これがお互いさまの問題であることに気づいている人がどれほどいるか。
  • すべてを自分で判断することはできない。だったら、「この問題については、この人の言ってることが大体は正しそうだ」でやるしかない。つまり聴くべき相手は、確率的に選んでいる。相手の新規な説明を聴くことに、無限のコストは割けない(お互いに)。また聴いたところで、そのアイデアを採用するコストも膨大だ。


*1:書評の対象となった本は大まかに立ち読みし、ニコ動で関連番組を視聴した。購入しての精読はしていない。

*2:ほとんどすべての「若者論」に意味がない、というよりむしろ有害なのはこのためであって、「若いひとを批判してはならない」のではない。彼らを《名詞化カテゴリー化》しない限りは、独自の技法的生成を生きるような、正当な批判があり得る。(そのつどのディテールが必要なので、事前に分かりやすく枠組みを設定することはできない。) ▼弱者であれ何であれ、カテゴリーで囲いこんで100%擁護する議論は、差別的罵倒と裏表でしかない。生じている苦痛に本当に共犯的なのは、メタ的理解に居留まろうとする生産様式なのだ。ここで、固着しているのは生産様式であって、結論部分ではないことに注意。「自分は誤り得る」という、結論部分への柔軟さは、様式の固着と何も矛盾しない。その様式を維持したままで「謙虚に」なろうが、「若者肯定派」になろうが、同じことだ。

*3:私が斎藤環氏にぶつけた疑問は、まさにこの点だった(参照)。それは「単に理論的な」反論なのではなくて、実際に意識との関係で硬直している引きこもり状態の臨床論そのものだ。ひきこもりでは、意識の生産様式が(ということは関係様式が)固着している。

*4:それはメタ言説を待望する消費者のナルシシズムに消費され、生産様式をさらに固着させて終わる。

*5:《外部》はここでこそ問題になる。カテゴリー化した他者を絶対肯定していれば外部性が担保されるのではない。