ランダウアーが「Information is physical」と言ったのと同じ趣旨で、「Theory is physical」というテーマが探究されなければならない。
カントは自分の超越論的統覚が時間の外にあるという前提と思い込みのもとにものを考えたが*1、批判的吟味も理論的認識も時間的にしかあり得ず、その表現は時空間的な言語でしか実現できない。であれば、理論的理解には時空間的であることによる制約があり、またそれゆえに編み出し得る技法もあるはずだ。時間を捨象した「理論」*2は、時空間的に生きられる技法の一部と言える*3。
現状の数学や物理学はおのれ自身が時空間的であることを当たり前のように捨象し、まるで「時空間の外にいる純粋認識」が時空間を相手にしているような勝手な想定で理論活動をしている。それゆえ、理論的認識そのものが時空間的でしかあり得ないことによる制約の研究とそこからの技法開発というスタンスが取れていない。まるでカント以前の形而上学のような独断と思い込みのまどろみを続けている。
2024年10月4日の追記
この木田元氏の分かりやすい解説が必須になる。
technique.hateblo.jp
「デアル」を豊饒化させる努力は今後もずっと続くが、その「デアル」を述べる言説そのものが「ガアル」の営みであり、それゆえの制約と命運を負わされている。それに気づいたところから編み出せる技法もあるはずだ。
*1:ハイデガー『ハイデッガー全集25 カントの純粋理性批判の現象学的解釈: 第25巻 第2部門 講義(1919-44)』p.396
*2:現状これまでの理論的認識がそうであるような
*3:時空間的な技法の一部として位置づけ直したあとで、あらためて「時空を捨象した考察」として取り組めばよい。現状では「理論研究とはこれしかない」という無根拠な前提に基づいた努力しかない。