カント「Realität」誤訳問題をめぐって

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)



以下、鮮烈な印象を受けた Realität 誤訳問題と、
その周辺をめぐる木田元氏の説明(に対する私の理解)を、要約してみます。


マルクスフォイエルバッハ・テーゼ」にある、

  • 唯物論(Materialismus)》 と 《観念論(Idealismus)》 の対比

は、哲学科の教員たちからは逸脱とされるらしい。
しかし木田氏は、そういう教科書的な理解そのものを問題視している(p.203)。


つまり哲学科の教師たちは、

  • 唯物論(Materialismus) 唯心論(Spiritualismus)》 が 存在論
  • 実在論(Realismus) 観念論(Idealismus)》 が 【認識論】

――というのだが、
これではマルクスの批判した「ドイツ観念論」も、認識論になってしまう(p.204)。


real の語源である res は、最も広い意味での《事象=もの》だから(p.210)、
Realismus と Materialismus は、存在論の立場としては、ほぼ同義といえる(p.212)。


「デアル」を論じる Idealismus と、「ガアル」側の Materialismus を対比させたマルクスは、
認識論ではなく存在論であり、間違っているわけではない(p.212)。

    • Idealismus は 《〜でアル(事象内容イデア)》 の話であり、
    • Materialismus は 《〜がアル(現実性存在)》 の話。




カントの時代の real には、「実在」という意味はない(p.41)

ややこしいのは、

  • カントの「real」は 《事象内容イデア》 の話であって、《存在》 の話ではないこと。*1

邦訳は real を「実在的」と訳してしまって、わけが分からなくなった。*2


Sein ist kein reales Prädikat. というカントの有名なフレーズは、
日本語文献では 「存在は実在的述語ではない」 と訳されている。*3

これは本当は、「Sein は、事象内容をあらわす述語ではない」という話をしている(p.49)。 つまり、存在しているかどうかを論じる《ガアル》は、事象内容を論じる《デアル》とは別だよね、と。


私たちはいつの間にか、事象内容を論じる「デアル」と、存在の有無を論じる「ガアル」を混同していて、だからカントも分からなくなった。

カントの議論で real は「事象内容」であり、それに対して wirklich が、実在や存在を問うている。 (カントの頃の Realität に、実在という意味はなかった)



表象としての obiectum → 現実的な Objekt

ここに、17世紀のデカルト(1596年生〜1650年没) から、 18世紀のカント(1724年〜1804年)の間に生じた、Subjekt / Objekt のねじれが加わる。

    • デカルトの時代に obiectum は、「感覚に向かい合うもの」として《観念・表象》、つまり事象内容(イデア)の話だったのに、
    • カントの時代に Objekt というと、《実際に経験されている状態》のことで、Wirklichkeit とほぼ同義になる(p.51)。


  • デカルトの文献で「realitas obiectiva」というと、「心に投射された事象内容」だから、イデア的な話。
  • カントの文献で「objektive Realität」というと、「現実化された事象内容」で、現実性の意味になる(p.52)。 真逆なのだ。

日本語文献では、これが両方とも《客観的実在性》と訳されたので、わけが分からなくなった。 → デカルトの邦訳で「客観的実在性」とあったら、「表象された事象内容」に置き換えると、わかりやすくなる(pp.56-7)。

 Realität が《現実性》と同義の《実在性》という意味をもつようになったのは、この 《客観的事象内容(objektive Realität)》 の概念が誤解され、切り縮められてのことだろうと、ハイデガーは推測している。 (p.51)

カントにおいて Realität は、あくまで「事象内容」の話だったのに、
いつの間にかその「デアル」のニュアンスが抜け落ち、縮められて、
「ガアル」という(wirklich と同じ)話になってしまった。



存在論としてのやり直し

「デアル論としての Idealismus」というハイデガー的理解を経由するなら、
それに対比される レアリスムス Realismus は、res という語源を尊重して、
《もの主義 》とでもしたほうが良いだろう。

つまり 《Realismus Idealismus》 は、《実在論⇔観念論》ではなくて、
《もの主義 イデア主義》 とでも訳すべき(p.210)。



《生成的な制作》を生きる技法

本書で木田氏は、あくまでハイデガーの講義を説明しておられるのですが、
私が連想していたのは、次のようなことでした。つまり、

  • 課題として、《唯物論的なプロセスの奪回》が浮かび上がってくる。

とりわけ、マルクスの労働過程論を経由して。


プロセスそのものにおける「メタ」との関係様式は、精神科臨床の技法にまで影響します。
私は、どうやって自分を、自分の活動様式をデザインするか。 私たちは、イデア的な「デアル」を絶対的な準拠点にしないで*4、独立自存のプロセスを編成できるだろうか。


木田氏の本(で解説されるハイデガー)は、
古代存在論を「制作的な」存在論としており(pp.113〜156)、
それに対して、「生成する」存在論をぶつける(pp.223〜236)。
制作的であることが、同時に生成的であるような存在論はあり得ないだろうか。



*1:【私の質問】: 語源的に 《もの res》 を出自とする real が、なぜカントの時代までに「事象内容≒イデア」の意味になったのか。 《もの》なら、プラトン的「本質存在」ではなく、アリストテレス的「事実存在」を表すのが自然だと思う。 【2012年12月21日夜遅くの追記】: 普遍論争では、「普遍概念が実在する」とする立場を 《実在論 Realismus》 と呼んだ、という説明があるのですが(Wikipedia)、ここで実在するとされるのは「普遍概念≒イデア」であって、経験的世界での実在ではない――この文脈と、つながるんでしょうか。

*2:とはいえ今ではドイツ人も、Realität を「実在的」としか理解しないらしい(p.41)。

*3:岩波文庫純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)』p.265参照。

*4:名詞は、部品としての準拠点ではあり続けます。――ここでは、名詞を部品とする《動詞》のあり方こそが問われています(参照)。 現世の動詞は、「デアル」に支配されて終わるのかどうか。