- 作者: 木田元
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/08/27
- メディア: 文庫
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以下、鮮烈な印象を受けた Realität 誤訳問題と、
その周辺をめぐる木田元氏の説明(に対する私の理解)を、要約してみます。
マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ」にある、
- 《唯物論(Materialismus)》 と 《観念論(Idealismus)》 の対比
は、哲学科の教員たちからは逸脱とされるらしい。
しかし木田氏は、そういう教科書的な理解そのものを問題視している(p.203)。
つまり哲学科の教師たちは、
――というのだが、
これではマルクスの批判した「ドイツ観念論」も、認識論になってしまう(p.204)。
real の語源である res は、最も広い意味での《事象=もの》だから(p.210)、
Realismus と Materialismus は、存在論の立場としては、ほぼ同義といえる(p.212)。
「デアル」を論じる Idealismus と、「ガアル」側の Materialismus を対比させたマルクスは、
認識論ではなく存在論であり、間違っているわけではない(p.212)。
-
- Idealismus は 《〜でアル(事象内容≒イデア)》 の話であり、
- Materialismus は 《〜がアル(現実性≒存在)》 の話。
カントの時代の real には、「実在」という意味はない(p.41)
ややこしいのは、
→ 邦訳は real を「実在的」と訳してしまって、わけが分からなくなった。*2
Sein ist kein reales Prädikat. というカントの有名なフレーズは、
日本語文献では 「存在は実在的述語ではない」 と訳されている。*3
これは本当は、「Sein は、事象内容をあらわす述語ではない」という話をしている(p.49)。 つまり、存在しているかどうかを論じる《ガアル》は、事象内容を論じる《デアル》とは別だよね、と。
私たちはいつの間にか、事象内容を論じる「デアル」と、存在の有無を論じる「ガアル」を混同していて、だからカントも分からなくなった。
カントの議論で real は「事象内容」であり、それに対して wirklich が、実在や存在を問うている。 (カントの頃の Realität に、実在という意味はなかった)
表象としての obiectum → 現実的な Objekt
ここに、17世紀のデカルト(1596年生〜1650年没) から、 18世紀のカント(1724年〜1804年)の間に生じた、Subjekt / Objekt のねじれが加わる。
- カントの文献で「objektive Realität」というと、「現実化された事象内容」で、現実性の意味になる(p.52)。 真逆なのだ。
日本語文献では、これが両方とも《客観的実在性》と訳されたので、わけが分からなくなった。 → デカルトの邦訳で「客観的実在性」とあったら、「表象された事象内容」に置き換えると、わかりやすくなる(pp.56-7)。
Realität が《現実性》と同義の《実在性》という意味をもつようになったのは、この 《客観的事象内容(objektive Realität)》 の概念が誤解され、切り縮められてのことだろうと、ハイデガーは推測している。 (p.51)
カントにおいて Realität は、あくまで「事象内容」の話だったのに、
いつの間にかその「デアル」のニュアンスが抜け落ち、縮められて、
「ガアル」という(wirklich と同じ)話になってしまった。
存在論としてのやり直し
「デアル論としての Idealismus」というハイデガー的理解を経由するなら、
それに対比される レアリスムス Realismus は、res という語源を尊重して、
《もの主義 》とでもしたほうが良いだろう。
つまり 《Realismus ⇔ Idealismus》 は、《実在論⇔観念論》ではなくて、
《もの主義 ⇔ イデア主義》 とでも訳すべき(p.210)。
《生成的な制作》を生きる技法
本書で木田氏は、あくまでハイデガーの講義を説明しておられるのですが、
私が連想していたのは、次のようなことでした。つまり、
- 課題として、《唯物論的なプロセスの奪回》が浮かび上がってくる。
とりわけ、マルクスの労働過程論を経由して。
プロセスそのものにおける「メタ」との関係様式は、精神科臨床の技法にまで影響します。
私は、どうやって自分を、自分の活動様式をデザインするか。 私たちは、イデア的な「デアル」を絶対的な準拠点にしないで*4、独立自存のプロセスを編成できるだろうか。
木田氏の本(で解説されるハイデガー)は、
古代存在論を「制作的な」存在論としており(pp.113〜156)、
それに対して、「生成する」存在論をぶつける(pp.223〜236)。
→ 制作的であることが、同時に生成的であるような存在論はあり得ないだろうか。
*1:【私の質問】: 語源的に 《もの res》 を出自とする real が、なぜカントの時代までに「事象内容≒イデア」の意味になったのか。 《もの》なら、プラトン的「本質存在」ではなく、アリストテレス的「事実存在」を表すのが自然だと思う。 ▼【2012年12月21日夜遅くの追記】: 普遍論争では、「普遍概念が実在する」とする立場を 《実在論 Realismus》 と呼んだ、という説明があるのですが(Wikipedia)、ここで実在するとされるのは「普遍概念≒イデア」であって、経験的世界での実在ではない――この文脈と、つながるんでしょうか。
*2:とはいえ今ではドイツ人も、Realität を「実在的」としか理解しないらしい(p.41)。
*3:岩波文庫『純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)』p.265参照。
*4:名詞は、部品としての準拠点ではあり続けます。――ここでは、名詞を部品とする《動詞》のあり方こそが問われています(参照)。 現世の動詞は、「デアル」に支配されて終わるのかどうか。