マイノリティを口実にした規範言説は、自分の話をしない

  • 批評が、自分たちへの信用失墜を話題にできていない。*1
  • 批評とそれをめぐる理論は、どうやら左派イデオロギーの下位にある。
  • 「当事者」という語が乱発されるが、誰も自分の話をしない、できない。自己分析を核心テーマとするはずの精神分析でさえ。*2
  • 「マイノリティを口実にした規範言説」という最悪の知的態度。相手には反省を要求するが、自分は絶対に反省しない。*3
  • 「理論」と「当事者」のポジションをくるくると入れ替える卑怯な言い逃れ。*4


「自分の話をしない」ことが政治的処世術だとしたら。

自分の話をさせられる側が被差別民ということになる。

ただしそこでも、現状では属性語りや「告白」に終始し、政治状況を分析しなおす語りは忌避される。私は「当事者」というポジションに監禁されたまま語らねばならないのであり、そのこと自体を解体-構築的に分析してはいけない。理論を扱う特権階級ナルシシズムを最優先にするよう語らねばならない――だから誰も「自分の話」をしない。

マイノリティ擁護の言説をあやつる卑劣さ。その言説そのものが階級を再生産し続けている。

理論言語が階級を再生産してしまう。

「何を生産すべきか」は、そこで選択されたポジションが決めてしまう*5ポジションが名詞的に決められ、動詞的プロセス(労働過程)において階級の仕事が確証される。つまり資本だけでなく、理論言語の態勢≒体制が階級を再生産する。

「どのような語りをするか」は階級再生産の問題であり、実際になされる語りは、選択の終わった後の姿をしている。言説スタイルと階級のこの固着したありかたをつねに解体-構築し、やり直さねばならない。私は自らの階級を固定しない。私の語りは、つねに必要に応じて組み替えられる。



*1:自分たちに幻滅を向けてくる聴衆に対しては、「勉強しろ」ですむと思っているらしい。しばき隊リンチ事件隠蔽や「表現の不自由展」のデタラメぶりは、「勉強しろ」でごまかせるようなものではない。

*2:たとえばラカン派は、短時間セッションを自分で受けたことのない人が「ラカン派」を名乗る。自分や患者さんのために技法の試行錯誤をするより、ラカンの口真似でおしゃべりを続ければいいことになっている。これはもはや、対面の分析面接を前提にした「精神分析」ではなく、メタ的な精神病理学にすぎない。ブッキッシュであるがゆえに、状況における自分の分析をしなくてもいいことになっている。そうであるがゆえに、政治オンチであっても学派内で承認を回し合えるのだろう(その政治オンチそのものが分析のテーマにならない)。

*3:「日本は過去を反省するべきだ」という論者にかぎって、自分のことはまったく反省しない。「日本」を攻撃すればそれで禊が済むとでも思うのか。むしろ卑怯なアリバイ確保だろうに。

*4:たとえば上野千鶴子は、「私は女」というマイノリティ属性への居直りと、「これは学問ですから」という封建的威圧を場面で使い分ける。同じ手口を社会学者たちは平気で使う。こんな連中が「脱アイデンティティ」「構築主義」を名乗るバカバカしさ。

*5:ポジションを決めるのも理論言語だが、実質的には「どのような語りのスタイルを選択するか」がポジションを決める。メタ側か、オブジェクト側か。社会学者はそこを卑怯に使い分ける)