全体/関係/主観――専門性と主権性の対立(メモ)

  • 知識人は権力批判をやりたがるが、社会参加の観点からは、《いかに権力に巻き込まれるか》こそが焦点*1
  • 大文字の権力を批判しても、「権力を批判する」ことでコミュニティに受け入れられるだけなら、そのコミュニティ内部で自分が巻き込まれる権力は分析できていない。(「誰がいちばん権力を批判しているか」の分派闘争のくだらなさ)
  • 日本の左翼は、金正日政権による朝鮮系殺害を黙認する。リベラル系は、ドメスティック・バイオレンスに寛大。 ▼彼らは、自分の足元にある暴力を話題にしない。 大文字の大義*2のある場所には、暴力は「存在してはいけない」ことになっている。だから言及が許されない。
  • 正義言説と、精神科臨床的な趣旨は、「目指すところ」のみならず、語りのプロセスにおいて一致しなければおかしい*3《社会全体のガバナンス》、《目の前の関係性》、《主観性の方法》――この3つが、課題として乖離している。 しかし、分けられるわけがない*4。 語りのプロセスがみずからのルーチンを組み替えない正義言説は、ディテールへの弾圧になる。
  • フェリックス・グァタリの議論では、正義よりもケアが基軸に見える。正義を考えるとしても、それはむしろ《全体性へのケア》。 あるいは、ケアというふるまい自体に分析的なケアを要求している*5。 ▼グァタリを論じる人が、PC的正義やメタ学問の大義に居直るようでは話にならない*6。 臨床上の趣旨として制度分析や分裂分析を語るとしても、それがまた大文字のアリバイとなるようでは元も子もない。
  • 私たちはすでに関係に巻き込まれている。ひきこもる人は、贈与を受け続けている(あるいは脅迫やDVで語るべき事情にある)。 ▼ケア従事者は、身近な関係性に支配され、その関係それ自体を分析できない。 分析する、という意味生成を、権利上許されていない。 「障碍者のため」という理念があまりに絶対的で、「良心的服従」だけが許される。 ここでは、スタッフ側の権利が蹂躙されているかもしれない*7。 権力をともなう関係性を分析・調整する手続きの導入に失敗し、修羅場=“無法状態” に見える。
  • 専門性と主権性の対立は*8専門性それ自体が主張する主権性を考え直し、また、主権性が黙認する語りの方法*9を考え直し、双方を生き直すしかない。 必要なのは《努力プロセスの組み直し》であり、おたがいを利用し合うだけの共同作業ではない。




*1:服従を拒否し、自分の生活を家族にまかなわせる」――これだけなら独裁者。

*2:全体性を上から統治する

*3:そのヒントを、グァタリやスピノザに探れないか。

*4:《全体性/関係性/主観性》――これは、認識の対象である以前に実務課題だ。

*5:ラカン/ウリ/グァタリの緊張関係は、ケアの技法をめぐっている。 ⇒「反資本主義を標榜するグァタリ派が、医療主義に堕するラカンやウリを攻撃する」というのは、日本の不登校業界にあるのとまったく同じ構図であり、貧しすぎる。むしろ、党派性それ自体がケアされなければならない。

*6:党派内のDV的関係性はあくまで水面下。

*7:全体主義社会では、大文字の理念に逆らう者は排除される(殺される)。

*8:cf.棚瀬孝雄『司法制度の深層―専門性と主権性の葛藤

*9:主権者どうしの関係で黙認されている方針。 「○○経験者が語るなら許す」というのも、「承認された専門性の方針」だ。