必要なのは、《超越性≒不連続》の技法論

ラカン派の超越性のかなめが《欲望》であるとして*1
アンティゴネに相当する葛藤は、日本の日常で言えば何に当たるのでしょう。
あるいは例えば、次のような疑問があります。

    • アンティゴネの欲望と、「分析の欲望」は、同じものでしょうか。
        • cf. 『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』末尾より: 《分析*2の欲望は、純粋な欲望ではありません。それは絶対的差異を得ようとする欲望です(Le désir de l’analyse n’est pas un désir pur. C’est un désir d’obtenir la différence absolue)》。 「純粋な欲望」も「絶対的差異」も、よく分からないままです。
        • ドゥルーズ/グァタリとのちがいを検討するなら、アンティゴネよりフロイトの欲望(cause freudienne)で考えたいと思ったのですが。これは有体にいうと、ラカン派の教育分析に相当するものは、グァタリではどうなるのか》という問いで、私じしんの研究課題です。つまり、「スキゾ分析家の養成」という事業が、世界のどこにも見当たらない*3


    • うまく欲望を持てずにいる人に「譲歩するな」とばかり言っても、「欲望せねばならない」という焦りを強めるばかりです。 ラカン派のこのスローガンは、すでに何らかの願望をもつ人からは自己反省の機会を奪い、いまだ戸惑う人からは再編の機会を奪っているのではないでしょうか*4


    • 「欲望に関して譲歩するな」をよく持ちだす斎藤環氏は、「オタクになればいい」というのですが(参照)、オタク的であることが、アンティゴネと関係あるのでしょうか。




欲望の話は、信仰の話に近い。

「信仰」といっても流派は無数にあるように、「欲望」というだけなら、立場はいろいろあり得ます。ラカン的な欲望の設計図はあるとしても、それは特定宗派の立場にすぎない。

同じことは、ドゥルーズ/グァタリの《特異化》にも言えます。特異化するとしても、方針はみんなバラバラ。本当に特異性を打ち建ててしまえば、お互いに同意はありません。


「彼らの思想はそういう話ではない」という解説は今後も続けるとして、
そもそも私たちには、《超越性つくるプロセス》を内在的に生きる技法こそが、必要だと思います。
身体がある以上、制作技法のレベルでは、そんなに「なんでも構わない」というわけにはいかない*5
逆にいうと私は、《制作の技法論》としてこそ、彼らを比較しています。



*1:欲望の分からなさ 超越性の分からなさ

*2:ここは邦訳で「分析家」となっていますが、手元の原文では「analyse」なので「分析」としました。しかし英訳では「analyst」つまり「分析家」です。

*3:たとえばこちらのページには、次のようなやり取りがあります: 《精神分析家は自分のことを精神分析家だと言うが、スキゾ分析家は、自分はスキゾ分析家ではないと言うでしょう。ディスクールを変えることができる。一つの役割をやらない。(« Le psychanalyste dit je suis psychanalyste, le schizo-analyste dirait, je ne suis pas schizoanalyste. ». Capacité à changer de discours. Ne pas se prendre pour un rôle.)》。 ここで「ディスクールを変える」と言っているのは、ラカンの「4つのディスクールLien social)」を参照しているのだと思います。 ジャン=クロード・ポラック(Jean-Claude Polack)はラボルド病院でウリ、グァタリと十数年いっしょに働いており、マックス・ドラ(Max Dorra)はグァタリらの雑誌『シメール(Chimères)』の編集委員

*4:本人の主観としては欲望の道であっても、いわば《欲望の技法》において誤ることで、いくらでも硬直します。

*5:ここで身体性は、美術用語にいう「メディウム・スペシフィック」の問題を帯びます。 詳細は、『絵画の準備を!』pp.391〜393 を参照。