「当事者のために」をメタな口実にする全体主義がエビデンスを軽視する

私にとって倫理とは、フェアな形での自己の素材化のことだ。そこでおのずと生じてくる創発的分析の特異性、そのできる限りの尊重*1をこそ倫理的な営みと呼びたいのだが

いわゆる左翼リベラルにとっては、「当事者のために」というような絶対擁護を口実にする卑劣さを倫理と呼んでいるらしい。


こんな根本的勘違いに気づかないまま左派を信用していたとは。

彼らにとっては自己検証ではなく「当事者擁護」が倫理なので*2、それを意味するスローガンさえ立てれば自己の権力を絶対化できる*3。ここには自己検証の契機はない、つまり倫理はない。(おのれが絶対化した当事者のニーズ通りに振る舞えているかどうかだけが "倫理的" 検証のテーマというわけだ。)


左派がなぜ《ウソ・隠蔽・印象操作》ばかりの集団となっているか――その根本的メカニズムがここにある。彼らにとってはフェアな自己検証は倫理ではないのだ。ただ「擁護のポーズ」だけが倫理と呼ばれる。


私はこれまで、たとえば「当事者という名詞ではなく当事化という動詞形で考えたい」というような表現で言語化を試みていたのだが(参照)、エビデンス軽視をめぐる今回の騒動であらためて構図が明らかになった。「当事者」という語を連呼する彼らには実は当事者意識はなく*4、自己検証の創発を尊重する姿勢はない。むしろ自己検証は激怒をもって拒絶される(斎藤環が私を拒絶したように)。そこには《対話》の契機などなく、許されているのは「対話」というスローガンへの教条的順応だけだ。


歴史的には左翼政権は、「プロレタリアのために」を口実に妄念的独裁と自国民虐殺(1億人!)を正当化してきた。それとまったく同形の権力化が、今も《当事者》概念をめぐって続いている。


左派は20世紀には自己検証を身上とする知的活動を盛んにおこなったはずだが――それは2023年の今、《マイノリティのために》というメタ的口実のもとですっかり無効化されている。「マイノリティのために頑張って」いれば、自己検証のタスクは免責される――この安楽さに左派の大多数が依存症的に惑溺し、内在的批判の創発を恫喝的につぶしている。これでは集団として再生のしようがない。



*1:ドゥルーズやグァタリの文脈で「創発」「生成」が話題になるとき、私はそういう特異的分析の生成の話だと思っていたのだが(参照)――少なくとも日本左派の文脈では違うらしい。

*2:「当事者擁護」は自己検証を回避する口実だ。「体験」なども検証拒絶を補強するワード。

*3:「対話」「ダイアローグ」もその一つというわけだ。そのスローガンさえあれば、「実際には対話が全くできていない」という実態への検証はしなくて済むことになってしまう。

*4:「当事者」を連呼する者ほどおのれの加担責任を見ようとしない――つまり当事者意識がない。