《当事者性の分析》こそ、徹底的に忌避されている。

自分の加担責任をつまびらかにされる恐怖。
それを回避するためにこそ「弱者を守るため」を口実にする。それを話題にしてる間は「私の加担責任」を問われずに済む(≒問うてはならない)という暗黙の恫喝が機能するから。


私が《技法》というテーマを核心にする理由の一つは、《技法論的な当事者性》は必ず全員にあるから。私たちは必ず、何らかの技法を通じて意識を生きている*1。そこに加担責任は必ずある。


精神分析脱構築も知の歴史性もミクロな権力も、《おのれの当事者性》を俎上に載せる取り組みだったはずだが、なぜか知識人の権威化談義に終わってる。有名人と同じ口ぶりをするだけで、あるいは引用して解説者を気取ってドヤ顔。「問題になってるのはお前だ」じゃなかったのか。


左翼リベラルのダブスタがさんざん指摘され、捏造・隠蔽・印象操作が糾弾されるが、そのたびに指摘されているのはまさに《お前の当事者性》だ。「対話」「反差別」などの美しいスローガンだけで《おのれの当事者性》はなくならない。



*1:動物なら「本能」だけでよいが、人間であれば《技法》という要因を生きざるを得ない。技法というテーマには、人間と自然の境目がある。