技法論的な加担責任

技法論がどうして嫌われ、怒りを買うか。あるいはそもそも、どうして「何を話しているか」すら理解されないのか。――これは技法論が、加担責任を突きつけることに関係する。

人々は、「事柄そのもの」を考えられると本気で思っている。ところが《考える》には、すでに様式がある。技法が生きられている。それが悪さをしているかもしれない。

主観性の生産過程で問われる技法論は、《内容そのものをメタに考える》という安楽さを許さない。「自分はどうやってしまっていたか」という、加担責任を突きつけられる。

論理だけを、意味だけを考える言葉遊びの人たちは、この問題設定そのものを認めない。「客観的に」語り得ると、本気で思っている。――この《意味への狂信》を、解除できるか?



2013年3月9日 【追記】

ひきこもり問題を研究すると、さまざまな文脈に引き裂かれ、論じる本人が孤立し、排除されてしまう。個別の学派や党派が欺瞞になるため、あとは「自分の俗世的な妥協をどこにするか」といった話になる。

複数の権威性が拮抗しているフィールドなので、論じる作業は最初から政治的。「論じているのはどのポジションの人か」「どの言説様式を選んで話しているか」は、常に付いて回る。それを無視して語れるようなポジションはない。

技法論はそうした権威性すべてを問い直すが、「だからこそ誰にも通じない」ところがある。*1

時間をかけて説明しても、似たポイントで悩んだ経験のある人にしか、「何を論じているか」が伝わらない。

読んでくれたという人が、「要するに」と、アサッテの方向で解釈してくる。 「そうじゃなくて…」と説明し直すと、また何日もかかり、しかもぜんぜん伝わらない。

膨大なエネルギーをつぎ込んでも、やればやるほど、敵意を買い、孤立していく。
似たようなジレンマの呟きは、他の領域でも何度か見た――個別論点の前に、これを乗り切ろう。



*1:一度スイッチの入った正当性の方針を、多くの人は問い直さない