いまは、理論言説を現実世界に引きずりおろす途上

規範から技法

  • 不登校・ひきこもり・依存症――これらにとって規範言説は有害。必要なのは技法の試行錯誤。*1
  • 「私は健康とされているから再検証の必要はない」では困る。《集合的な場》の技法論的醸成に、加担責任がある。*2
  • 知的言説が規範論に終始しているために、オタクや引きこもりについては、「全肯定か全否定か」の不毛な対立に落ち込む*3。しかし技法論の立場からは、それぞれを技法のありようと見たうえで、「改善の余地は残る」と言えば済む。(改善の余地の残らない技法などない)
  • 論じる自分が、有限な効能を持つ具体的技法を生きていることを忘れる議論は、有害になる。
  • 規範言説それ自体の、全体主義的な性質。相手を善悪に色分けし、差別する。――必要なのは技法だというのに。


理論は技法の一形態

  • 物質科学も数学も、それをやる私たち自身が時空の一部である以上、いわば《時空を営む技法》の一部にすぎない。
  • 理論だけがニュートン的な絶対時間・絶対空間を生きるわけではなく、言説と記号も、時空連続体を生きる。私たちは、集合的に生きられる形での時空の技法を考えざるを得ない。
  • 事実命題と規範命題を分けて終わってしまうのでは困る。あるスタイルでの事実理解と、あるスタイルでの規範理解は、技法内部の要因にすぎない。場面に応じてそれぞれを位置づけなおす必要がある。
  • 「脳と体が矛盾している」というより、脳そのものの集合的身体性が問われる。▼「脳と体が矛盾する」とよく言われるが、そう論じるのも脳なので、この表現じたいが矛盾してしまう*4。また「脳」を孤立的に位置づけてしまうと、身体性それ自体が記号的・社会的に生きられることを忘れてしまう。――これはけっきょく、《身体》を神秘化して終わりがち。つまり、記号的要因への理解をメタに回収して終わる観念論になってしまう。必要なのは、記号の生それ自体を身体的・時空的・集合的に生きなおすこと。


努力の設計図

  • 規範言説は、事業としての自分じしんに傲慢に言及する。つまり、「規範理論をやらねばならない」がメタに固定される。これでは、規範言説そのものが技法論的吟味を逃げられないことに気付けない。
  • 規範言説は、自分の技法論的前提を知らない。研究する必要性にすら気づいていない。(メタ言説は、私たちの時空的・集合的身体を監禁してしまうというのに)
  • 探求フォーマットを規範言説に固定した時点で、最初の第一歩を間違っている。そのフォーマットのままいくら続けても、間違い続けたまま。*5


時空の試行錯誤

  • この社会でうまく生きられない状態をめぐっては、(1)物質科学、(2)政治や政策の状況、(3)背景となる技法的フォーマット、(4)アクセスできる個人の事情、(5)いま同席している場でのタイミング――など、さまざまな要因に具体的に配慮する必要に迫られる。
  • これを芸術領域を参照して「キュレーション」と呼んでも、さほど外してはいないはず。→対人支援にとどまらず、現実生活そのものが、さまざまな領域やレベルにおよぶ《総合的なキュレーション活動》であるほかない。*6
  • 身体臓器の医学なら、物質科学「だけ」でもそれなりに機能する。しかし時空間のやりくりは、居丈高な理論や規範だけでは成り立たない。


      • 【追記】:「理論言説を現実世界に引きずりおろす」――これではまるで理論言説が現実世界にないみたいで おかしいのですが。言葉と世界の関係の作り方がおかしくなった状況を問題にしています。




*1:「厳しい話をしてはいけない」のではなくて、厳しい話も、技法という視点から位置づけなおす必要がある。この《位置づけ直し》のスタンスの話をしている。

*2:物象化のもんだいは、放置してもよいと思う側と思えない側で、利害が対立する。

*3:全肯定できなければ「差別的に否定しているんだろう」と責められるというわけだ。

*4:「脳と体が矛盾している」と指摘するだけで、いきなり身体側に加勢できるわけではない。――これはマイノリティ論に似ている。

*5:リベラル系の規範言説が、間違いの再生産様式になっている。

*6:むしろキュレーションを、身体性をともなった集合的時空間の試行錯誤として位置付け直せる。