ひきこもり問題が広く知られてもうすぐ20年

規範的に説教するか、丸ごと受け入れるか

――そのどちらかしかできない支援では、《体験の内側から試行錯誤のありようを語りなおす》ということは出来ません。そうすると、ひきこもり問題の核心部分を論じられない。ひきこもりの話が、いつまでたっても「自分の話」にならない。


すべてを他人事にしてしまう、レッテルに終始するような言説環境は、差別の温床にもなっています。*1


2004年に「ニート」が流行語になって以後の関連予算は1000億円とも言われましたが、*2 ほぼ完全に失敗しました。そもそも支援事業そのものが、まったく利用されなかった。


「ひきこもり」が人口に膾炙してもうすぐ20年にもなりますが*3、この間の何がどう問題だったのかは、うまく論じられていません。肝腎の部分を論じることは禁じられたまま、「なんとなくこのまま行くしかないよね」というような。


ややひどい言い方をすれば、ひきこもり問題が突き付けるテーマを直接扱うことは許されず、俯瞰目線の決め台詞を競うインテリごっこや、ポリコレっぽい運動しぐさばかりが優先されてしまう。


そうした言説環境に違和感を覚えれば、既存コミュニティには居られません。自分で撤退しなくても、人事的に排除されます。人的環境としてはいじめや個人崇拝その他の「集団の問題」は、一般の組織と同じくそのまま再演されるわけで。


悩む人の集団は、妖精の集まりではありません。生身の人間の集まりであり、既存の社会集団に生じるような醜悪な実態は、当然ながらそこにもあります*4。たったこれだけの当たり前のことすら、「当事者は素晴らしい」のイデオロギー的建前のもとに論じられなくなる。


だから、主観性や集団の技法それ自体を内側から論じる、という本当の意味での当事者的な語りが禁じられ、遺棄される。トラブルはいくつもあったのに、すべてなかったことにされ、体験知になっていかない。「実際にあったことを考え直してみる」という知性の手作業は禁じられる。


口先の運動イデオロギーをきれいにして弥縫すればするほど、本質的な問題を扱えない人的環境となっていきます。


当事者的に語ろうとするがゆえに、党派的に排除されて社会参加のチャンスを失う。つまり当事者性こそが禁じられている*5――ひきこもり論にとって重大なモチーフのはずですが、なかなか主題として扱えない。


党派的排除というのは誰にとっても自分の問題ですから、誰にとっても当事者性がある。その当事者性の部分で語りなおすことが出来ないわけです。だから、空疎なスローガンに疎外される形でしか集団を営めないし、そのスローガンを口にする権威者には誰も反論できない。*6


これは、集団そのものをやり直そうという言説環境ではありません。つまり今のところ引きこもり問題は、「既存社会にそのまま適応するか、さもなくば社会保障に頼る」――それ以外の方法論を持っていない。


これしかできないなら、それを前提に考えないといけない。



*1:身分制を前提にするような支援言説そのものが、差別の再生産になっている。

*2:既存予算に網をかけただけのも含め

*3:新潟の少女監禁事件の報道をきっかけに「ひきこもり」という語が広く知られたのは2000年2月。最初は完全に「犯罪者予備軍」という扱いだった。

*4:もともと人間関係や集団参加に難を抱えた人たちが集まって、どうしてうまく行くと思えるのか。何がどう問題になるかをこそ中心的に論じるのが当たり前ではないか。ところが医師や学者は、「当事者」をモルモットのように対象化するだけで、関係性それ自体を考え直すというテーマそのものを抑圧する。そういうテーマをやり始めれば自分たち自身の「人をモノのように対象化する目線」が俎上にのぼらざるを得ないからだろう。――つまり考えなければならないのは、関係性における視線と技法の当事者性それ自体ということになる。

*5:「硬直した党派性は、当事者性に敵対的である」という重大なテーマ。マイノリティ支援を標榜する運動のほとんどはこれを隠蔽し、語ることを禁じます。つまり、「マイノリティの肩を持っている」が絶対的なアリバイのように標榜され、それを語る自分自身の当事者性を語りなおすことを許さない。そこにはスキャンダルが含まれてしまうからです。

*6:そのくせスローガンは「対話」だったりする。