問われているのは、技法的な実態と、その加担責任

当事者研究」に感じている疑念と興味をめぐって、あるいは今後の対話的なやり取りの可能性に向けて、いくつかのヒントを頂きました。以下、引用しながらメモしてみます(強調は全て引用者)。


 特定の人々が、様々な感覚や認識のしかたに一定の特徴的な性質を備えているにしても、その人が抱える社会性やコミュニケーション上の諸問題の全てを、発達障がいという個人的特性にのみ起因するものと考えるのではなく、社会の側にある諸要因をも視野に入れて、その問題の解決法を考えて行く必要があるのではないかと。その点で、ソーシャル・マジョリティ(社会の多数派)の社会関係の作り方やコミュニケーションのしかたを知ることが重要な意味を持つ。

 ソーシャル・マジョリティが、知らないうちにこんなルールで会話やコミュニケーションをしているという、「普通」の人々が「普通」にすることのしくみを理解することによって、その知見が、マイノリティの側の社会適応の参考材料になったり、あるいは、社会批判の根拠になったりするであろうと。


    • 《個人⇔社会》という概念図式に疑問があります。
    • 多くの人と同じ技法で私が意識や行動を生きるとき、その技法は「個人」の側にあるでしょうか、それとも「社会」の側にあるでしょうか。簡単に言えません。▼集団的に採用された技法は、「私が作り出したのではない」という意味でも歴史的・社会的ですが(言語それ自体のように)、それを通じて成り立つ私秘的な再生産は個人的で、試行錯誤に満ちています。
    • どんなに逸脱的な個人も、ある仕方では、順応的に振る舞っています。ですから、個人と社会を静態的に切り分けるのではなくて、瞬間ごとに照準を変えて、分節しなおす必要があります。分節という動きそのものを、集団的な動きの中で生きなおすこと。――これは学問的な課題であると同時に、生活者としての、日常の時間における課題です。(ここがうまく行かないと、生活者として行き詰まる)
    • 「論じる」という作業そのものの、(1)集団的な性質と、(2)みずからの加担責任。この両方に気付く必要があります。私たち一人ひとりの「論じる作業」は、どういう技法を採用しているでしょうか。
    • 社会という言葉にこだわるより、作業過程そのものに照準する言葉をいくつか選んで、これを豊かに作り直すことに、技法的な意義を感じます。*1
    • 私がいくつか発言を拝見した範囲でのことですが――綾屋紗月氏は、名詞形「当事者」概念の操作のあり方において、マジョリティの側におられます。それは私からすると、《「普通」の人々が「普通」にすることのしくみ》にあたる。
    • そこに違和感を持つ私は、技法的な問題意識をやり直すことになる。そもそも《技法》という照準そのものが、やり直しの試行錯誤から出てきています。


 講演の中で浦野さんは、こうした字義へのこだわりは、問題としての「症状」というよりも、そこで生じている問題に対する一つの「対処法」として考えるべきだと回答されたのである。言い換えれば、発達障がい当事者が、あるコミュニケーションにおいて字義にこだわるとすれば、それは、特定のコンテクストの中にある相互行為に参加することが困難な状況に対して、積極的に対応しようとして選択した一つの手段なのだと。〔…〕

 発達障がい当事者が、あるコミュニケーション場面で「字義通り受け取る」ということは、往々にして私たちが考えるように、その人の「症状」という一定の状態を意味するというよりも、むしろ、その人なりに選んだ「積極的対処」という行為なのだということである。


    • 病名や障害名のレッテルを貼り、困難を「症状」で終わらせてしまうと、相手をレッテルに監禁することになります。これでは、本人の作業過程がそれ自体としてテーマにならないし、支援者や研究者は、患者を《観察対象》として、一方的に(差別的に)対象化することになる。許し難いモノ化であり、「見る目線」による搾取です。*2
    • この、《自分の側だけを一方的にメタに置く視線》という暴力を、作業過程の相互関係の問題として、俎上に載せる必要があります。作業過程においては、誰もが当事者≒関与者です。それは、動きの中で相互関係にあるのだから、静態的に固定するような概念操作は、最初からふさわしくありません。*3
    • 上記の引用枠内で言われていることは、私が「名詞形の当事者ではなく、動詞形の当事化」「規範ではなく技法」と こだわっていることに、深く関係します。▼「当事者」という概念を使い続けることも、規範論に終始することも、《技法として》間違っている。*4
    • 当事化という言い方には、技法の提案が含まれます。つまり、単に順応を目指すのではなく(それでは「正常さ」の奴隷みたいだ)、自分たちが負わされている条件付けについての分析を生産しながらの動きを生きてみませんか、と。
    • そこで「負わされている条件」には、私たちが意識や集団を再生産するときの技法的実態が含まれます。《論じる》という作業は、すでに技法的実態を生きている。


少しまとめると、

  • 自分の状況や条件付けについて、とりわけ《技法》のありかたを分析する
  • その分析を条件として成り立つ、自分の関与実態の検証としての「当事化」*5
  • これらは、メタで静態的な認識をもたらすためではなく(それは苦痛をいや増す)、流れの中に動きをもたらすために、別の時間軸の生成として(半ば受動的に、中動態的に)為される。

つまり、名詞形の《個人/社会》を最初に立てる代わりに、
「分析する」「当事化する」と動詞の話に置き換え、
そこでの具体提案をしている。*6



引用とメモを続けます。

 当事者の「積極的対処法」だとみなすと、当事者自身が、他の人々の協力を得て、その対処法が有効でなかった理由を理解するとともに、より効果的な別の対処法を、特に、字義に焦点化される通常の口頭による文表現以外のコミュニケーション手段による対処法を主体的に選択する可能性が開かれるという点で、この両者の捉え方の違いは非常に大きい〔…〕
 前者においては、「普通」の人々が「普通」にしている文表現によるコミュニケーションを不変のものとして、それに対応する資質・能力の方のみが改良の対象になる傾向があるように思われるが、後者においては、当事者側は、たんなる欠如状態にあるのではなく、問題解決に関与する主体性を備えた行為者として立ち現れ、同時に、当事者側の条件とそれを取り巻く社会の側の諸条件を、ともに調整・更新の対象と捉えることができるようになるだろう。


    • 「文表現によるコミュニケーション」に限っても、それが周囲の同調圧力とは別の形であり得ることに気付けば、文表現じたいのバリエーションにも気づけると思います。(単にバリエーションがあればいいのではなくて*7、「内在的に分析がないと、固まってしまう」というのが私の焦点ですが)
    • 「当事者側の条件」も、不変ではなく、技法的に改編/改変できるかもしれません。変えられるものと変えられないものの境界(参照)は、つねに曖昧にとどまっています。
    • 「社会の側」と言ってしまうと、《自分⇔社会》《当事者⇔社会》など、技法的に問題の大きすぎる概念操作を導き入れてしまいます。
    • たとえば私は、周囲の人にとっては、環境の一部です。私がどういう技法を採るかが、環境要因の一部になる。《当事者⇔社会》という概念操作をしてしまうと、そこで「当事者」と呼ばれた人も、そこで「社会」と呼ばれた側に加担責任を負う、という事情を論じられなくなります。▼「当事者」を、最初から「社会」に対立させるような、欺瞞的な論じ方になる。


 「あなたは字義通りに受け取る」「あなたは言葉の裏がわからない」と言われて困るという、発達障がい当事者による先の質問には、当事者自身も、期せずして、それを「症状」として捉えることを自ら引き受けてしまっているという事態が表現されている


    • 一方的に対象化してくるような、こちらをモノ化してくるような「専門家」の概念操作を自分で採用してしまい、苦しみをいや増す。――このことを考えても、概念操作のありようは、最初から臨床実務の一部です。「理論と実践」などと、分けられることではない。
    • 技法論的な加担責任を棚に上げるような、「一方的に対象化するだけ」の診断概念は、作業過程の中で適切に位置づけ直さなければ、技法的な誤りそのものになります。
    • 《障害と症状》という割り切りをすることで、誰のどんな恩恵になっているでしょうか。場合によってはそれは、「医師や学者が業績を上げやすい概念操作」でしかありません。みずからの加担責任を取り上げながら苦痛の実態を論じなおすより、学会やメディアの都合が優先されてしまう。*8
    • 当たり前とされる概念操作の、なにげない選択の一つ一つに、政治性があります。あるいはそれは、具体的な技法的選択になっている。▼たとえば、「当事者」という名詞形を選んだ時点で、私たちはこの概念に強く縛られます。それに順応できることが「正常」とされますが…


 「普通であることは成し遂げられること Doing 'Being Ordinary'」


    • 議論において、動詞形や作業過程に照準されているように見えます。対話の可能性に向けて、心強く感じています。




*1:私が廣瀬浩司氏や三脇康生氏の「制度」概念を参照するのは、こうした理由です。

*2:診断名のやり取りに終始するような医師や社会学者は、最悪の状況加担者です。

*3:「静態的に固定するような概念操作」は、それ自体が技法の一部です。《診断名-症状》という概念操作に終始する記述は、行政的なペーパーワークだけにすべきです。

*4:「論理的な間違い」「規範的な間違い」と、指摘の方針が違っていることに注意してください。「技法がおかしい」というのは、いわば唯物論のやり直しです。

*5:これは、「自己分析」というような、孤立した心理学化に抵抗する言葉の努力でもあります。社会的・歴史的な葛藤に巻き込まれた事情は、メタな解釈理論に頼ったり、個人フレームを前提にしたりしては、見えなくなります。思考の集団的傾向が、ある生産様式として実現されている。そのことまで含めての問題化です。

*6:「動詞の話に置き換える」という、そのこと自体が、すでに技法論的な提案です。

*7:「バリエーションを増やす」が自己目的になっては、その環境全体が硬直したままです。そして、バリエーションに見えるものは、実はパターンの反復でしかない。▼たとえばマーケットでは、商品の多様性は無際限に増えますが、《消費者⇔商品》という関係様式は固定されています。「消費する/される」以外の関係性が持てない。

*8:自分の加担責任を棚に上げるのは、学術やメディアの常です。▼また、正当化しにくい利益を得ているのは、「当事者」と呼ばれる本人サイドでもあり得ます。――名詞形で自分を「当事者」と呼ぶ人は、みずからの技法論的な加担責任をほとんど論じません。