2019-01-01から1年間の記事一覧

私たちは《紐帯≒触媒》になれるか――『デス・ストランディング』

DEATH STRANDINGでは、手形(掌)が重要なアイコンとなります。掌を開くと、他人と繋ぐ事が出来ます。掌を閉じると、それは拳に変わり、他人を排除する事が出来ます。繋ぐ事と争う事は、表裏一体。人の掌も、‘棒“と”縄“に例える事が出来るのです。TOMORROW IS …

党派(人の集団の傾向性)が複数あること

知性や肩書がご自慢の人たちが、いかに党派的にものを見るか。そして、「自分とちがう意見」と見なした瞬間に、どれほど簡単に人事的排除を行なうか。社会参加や就労への支援を考えるなら、こういう面こそ取り組まないといけないはず。といっても、「党派的…

マイノリティを口実にした規範言説は、自分の話をしない

批評が、自分たちへの信用失墜を話題にできていない。*1 批評とそれをめぐる理論は、どうやら左派イデオロギーの下位にある。 「当事者」という語が乱発されるが、誰も自分の話をしない、できない。自己分析を核心テーマとするはずの精神分析でさえ。*2 「マ…

いま支配的な語りは、みずからの当事者意識をなかったことにする

「当事者」という語を使いたがる界隈は、むしろみずからの加担責任についての当事者意識を持たない。*1当事者意識を免責するきれいごとの語りこそが、メディアや大学で無責任な支持を得ている。*2名詞形の「当事者」ではなく、動きの中で加担責任の内実を問…

無時間的な理論は、時間的な技法の下位にある。これは人類史的な課題だ。

無時間的な言説(科学・理論)だけでいいなら、そこには自分の話をする余地も、必要もない。時間の要因を織り込む必要に迫られるからこそ、自分の話をする必要が出てくる。特殊な労働条件としての《自分》。各種言説がメタ的・無時間的な理論に閉じることの…

動詞的であるはずの《存在》が、名詞として扱われている

《存在》というのは、実質的に動詞的(時間的)でしかあり得ないのに、無理に名詞として、つまり無時間的に、たんに論理的に扱うわけですよね。どうもこのあたりで、概念の位置づけを間違ってる気がしてしょうがない。《名詞的/動詞的》って、人類史的なテ…

和樹と環のひきこもり社会論(2006年春~2008年秋)

雑誌『ビッグイシュー』誌上にて斎藤環氏との間で交わされた往復書簡の、私の側の原稿を全文公開しています。 (1)【ひきこもりは自由の障害者?】(3) 【自殺的な自由】(5)【欲望することは義務か?】(7)【「娑婆から出てはならない」という掟】(9)【必然性の…

和樹と環のひきこもり社会論(57)

(57)【順応状態の完成より、手続きの整備を】 上山和樹 私は、「役割を固定すること」そのものの害を問題にしたのであって、「ひきこもり当事者が医者を告発する」という凡庸な図式を再演したのではありません。また、「役割の非対称性を外せば、動機づけが…

和樹と環のひきこもり社会論(55)

(55)【「読み合わせ」という社会参加】 上山和樹 斎藤さんは、私に何を求めておられるのでしょう。「単調で退屈だ」とおっしゃるのですが、私はひきこもりを論じることに心を砕いているので、斎藤さんに気に入られるリアリティを作るために理解をねじ曲げる…

和樹と環のひきこもり社会論(53)

(53)【役割フレームへのひきこもり】 上山和樹 20年以上も臨床を続けておられる斎藤さんに、わざわざ「観客席にいる」と申し上げたのは、もちろん自覚的なことです。これは、「体は現場にありながら、問題意識はその場に同席していない」という意味ですが、…

和樹と環のひきこもり社会論(51)

(51)【「自明の前提」の前に】 上山和樹 「前提としている基本的な発想」というのは、自分の正しさを確認するスタイルの話です。ちょっと変なたとえですが、斎藤さんはいわば、机に座って物理学の問題を解いている。そこでは、正しいか間違っているかは、実…

和樹と環のひきこもり社会論(49)

(49)【Re: 軌道修正のお願い】 上山和樹 実は、私がここ最近のやりとりで斎藤さんにお願いしていたのも、まさに「軌道修正」だったんですね。でもそうしたら、話がぜんぜん通じなくなってしまった。斎藤さんにも、ほかの皆さんにも。 「質問に答えていないじ…

和樹と環のひきこもり社会論(47)

(47)【決められたポジション】 上山和樹 斎藤さんは、「精神科医として20年以上、考察・検討してきた」とのこと。ひきこもった人は、就労経験のなさによって見下され、自己卑下することが多いので、この表現にはこだわらざるを得ません。これは、「仕事をし…

和樹と環のひきこもり社会論(45)

(45)【惑溺待望ではなく、分析を】 上山和樹 前便で斎藤さんに薦められた映画『ラスト、コーション』を観てきました。映画としてはすばらしい。しかし、どうにもならない恋愛感情をひきこもりの臨床論として強調するのは、斎藤さんのお立場を凝縮していると…

和樹と環のひきこもり社会論(43)

(43)【操作ではなく、制作従事】 上山和樹 「当事者」という役割設定は、ひきこもりにふさわしい議論と対応が成熟するためにはどうしても必要です。しかし、役割を固定する考え方は、逆にひきこもりを悪化させる元凶の一つではないでしょうか。 斎藤さんは、…

和樹と環のひきこもり社会論(41)

(41)【当事者という言葉】 上山和樹 やや迂回に聞こえるかもしれませんが、「当事者」という言葉の使い方をていねいに考えることが、コツや手続きの話になると思います。 ふつう当事者というと、苦しんでいる「本人」を指します。治療や支援はその本人をめが…

和樹と環のひきこもり社会論(39)

(39)【作業場の苦しみ】 上山和樹 斎藤さんのおっしゃる通り、苦しみに取り組むためには、まずその苦しみに名前がつく必要があると思います。政策レベルと個人レベルの問題とは切り分ける必要がありますが、ある苦しい状態が「ひきこもり」と名づけられ、何…

和樹と環のひきこもり社会論(37)

(37)【「誰がその問題を論じるのか」】 上山和樹 社会問題をどう構成するのか、ということと、それを誰が論じるのか、ということで、混乱が生じているんですね。 行動を起こした瞬間に本人の現実が変化してしまい、「ひきこもり」「フリーター」「非モテ」と…

和樹と環のひきこもり社会論(35)

(35)【参加資格の流儀】 上山和樹 やや飛躍して聞こえるかもしれませんが、ここで問われているのは、参加資格のロジックだと思うのですね。それで、そこで与えられた参加資格によって、自分をどう作り上げればいいかも決まる。 「31歳のフリーターである自分…

和樹と環のひきこもり社会論(33)

(33)【《日常》という抑圧と、「診断」】 上山和樹 精神科医である斎藤さんが、「診断」という医療行為の限界を語っておられることに注目したいと思います。そもそも、「人を診断する」という行為の意義と限界について、距離をとって考え直す人が少なすぎる…

和樹と環のひきこもり社会論(31)

(31)【関係の処理のしかたと、倫理】 上山和樹 斎藤さんは「脳と倫理」を焦点にされていますが、私は最近、「力と倫理」あるいは「関係と倫理」を焦点に、ひきこもりを考えるようになっています。 厚生労働省が2006年に行なった調査では、なんと「ニート」の…

和樹と環のひきこもり社会論(29)

(29)【「異常」なのか、「困惑」なのか】 上山和樹 「ひきこもっている人の脳髄に、異常はあるのか」。これは、一度きちんと整理したほうがよいテーマですね。「社会参加ができない人」の存在をめぐっては、いまだに診断上の混乱が続いているようです。統合…

和樹と環のひきこもり社会論(27)

(27)【「ひきうけ」の破綻としてのひきこもり】 上山和樹 脳に関する本は、ほとんど興味がありません。「仕事や家事は脳がよくなる」というのですが、ひきこもりにおいて本当に問題になっているのは、脳の不活性というよりも、「引き受ける」という人文的な…

和樹と環のひきこもり社会論(25)

(25) 【度外れた極端な弱さ】 上山和樹 「生きることに意味がないと感じるのは、そもそも意味なんかないからだ。行動する身体になりきることで、こだわりを捨てなさい」――これはたしかに魅力的です。「農業を体験してみよう」など、行動療法的な「支援」事業…

和樹と環のひきこもり社会論(23)

(23)【「苦しむために生きる」という非合理】 上山和樹 ひきこもりのリアリティについて報告しようとすることの悩ましさは、それを本当に感じてしまっては社会から離脱するしかなくなるし、それを単に忘れてしまっては、報告できないということです。社会順…

和樹と環のひきこもり社会論(21)

(21)【合理性から抜けられない】*1 上山和樹 「無駄な事だと思うだろう? でもやるんだよ!」――なるほど、これは励みになりますね。でも、この名言の元になったという、「犬のエサ用タライをわざわざ洗剤で丁寧に洗う行為」は、ひきこもりの状況に置き換えて…

和樹と環のひきこもり社会論(19)

(19)【逃げられない動機づけ】 上山和樹 「なぜそれをするのですか?」。これは、ひきこもりについて考えるときに、どうしても必要な問いだと思います。 欲望がないと言いながら情熱的にひきこもり論を続ける私の矛盾をついたあと、斎藤さんは、ご自分の欲望…

和樹と環のひきこもり社会論(17)

(17)【少し議論を整理します】 上山和樹 「ひきこもりというのは、精神でも身体でもなく、自由そのものに障碍がある状態だ」というのが、この往復書簡の(不可解な)出発点でした。そこで私たちの課題は、その「自由の障碍」の中身について検討し、「どうす…

和樹と環のひきこもり社会論(15)

(15)【洗脳拒否を共有すること】 上山和樹 「自分の人生はこれでいい」という納得は、私たちはどのように調達しているのか、あまり意識していません。死別や事故、思いがけない心身症、耐え難い人間関係、あるいはよくわからない意識の混乱によって、それま…

和樹と環のひきこもり社会論(13)

(13)【「社会参加」という信仰生活】 上山和樹 斎藤さんのおっしゃる「究極の結論」――なぜ究極なのでしょうか――に行く前に、その議論の前提を成す事情説明を、もう少しさせてください。すごく分かりにくい話だし、お互いに勘違いしてるかもしれないので・・…