「当事者」という役割への監禁ではなく、共事者研究というスタンスへ

★藤谷 悠(フジタニ ヒロキ)【「ひきこもり学」を構想する 二人のひきこもり経験者の対話――当事者研究から共事者研究へ(『日本オーラル・ヒストリー研究』第16号、2020年12月、PDF直リンク)


関連して語りたいことが山ほどあって、細かい文脈や背景まで説明しないとまずそうですが、私(上山)に言及いただいたところを中心にエントリしてみます。


誰からもほぼ完全に無視されてきた『ビッグイシュー』での件にも触れてくださってます。これは本当にうれしい。(※以下、太字強調やリンク等はすべて拙ブログ管理人によるもの)

 斎藤環上山和樹は、かつて雑誌『ビッグイシュー』の誌上にて複数年にわたって往復書簡形式の対談を行っていた。しかしこの対談は、二人の間に相容れない溝が生まれる形で打ち切られることとなる。対談の打ち切りは斎藤側からの要請であったが、そのことに関して上山は自身のブログ上で、「私たちは、お互いがお互いの『環境』であり『手続き』でもあるのですから、この社会に順応するかぎり、いつの間にかある程度は“当事者”にさせられているはずです。ところが斎藤環さんは、まずお互いの存在を純粋無垢な空間に固定し、そのうえでメタレベルの解離的言説をえんえん展開しようとする。 この雲上の会話に私が付き合わなかったことで、彼は議論を降りてしまった」*1と批判している。さらに、往復書簡の中で斎藤が自らの立場をカフカの『道理の前で』における「門番」を参照しながら概説していたことを引き合いに出しながら、上山は「斎藤環氏は、ご自分をこの門番のようなものだと思っているようです。――世の中の道理がいかに恐ろしいものであるかを言って患者を脅し、言動をチェックする。この門番に嫌われれば、門の中(≒社会)には入れてもらえない。斎藤氏は、門番であるご自分に反論を試みた私を、『社会に入れてやらない』と言ったわけです。――彼は本当に私を仕事の場から排除した」*2と批判する。



ここで私が「いつの間にかある程度は“当事者”にさせられている」というのは、「誰でもマイノリティ」という意味ではなくて、《常にすでに何らかの形で参加してしまっており加担している》というくらいの意味ですが、藤谷氏はおそらくそこを誤読しています。


次の箇所はまったく妥当な指摘です。
この問題に触れてくれたのは本当にありがたいです。

 斎藤〔環〕はその後、編者として複数の当事者たちの自伝的記述を集めた本を出版している。一見すれば、当事者自身の声を広く世間に届ける活動として純粋に評価すべきことかもしれない。しかし、上山が行った斎藤に対する批判を鑑みれば、同書に寄稿することができた人々は、(編者・専門家の立場にある)斎藤という「門番」によるフィルタリングを通過した当事者でしかない、という見方もできるだろう*3。もしそうした「当事者の選別」が行われてしまえば、専門家のお墨付きによって広く自分の声を発信する権利を得た当事者(=「正しい当事者」)とそれが叶わない当事者(=「その他の当事者」)との間に上下関係や分断を生み出すことにもなるだろう。*4



いっぽう論文の最後のほうでは私への批判があるのですが
この批判は、本論文冒頭で拙著(2001年)からの引用とともに語られていたことへの応答になっています。その冒頭箇所:

 また上山は同書の中で、「当事者の言説」というものの価値づけに関する論考を行っている。上山は、「文武両道」という言葉を引き合いに出して、専門家たちが「『文』の道で習得した『知識」を、自分の切実な覚悟や行動との交わりなしに『それ自体として』提示して、何か意味のあることをしているかのような顔をされること」に対する苛立ちを示しながら、「『客観情報』に、『自分自身を交わらせる』という危険な作業をやっている人が、どれほど少ないか」と嘆いている。さらに上山は、「専門家は『客観的』高みに立って空疎な知識を開陳することは許されず、一個人として自分の人生や大事なものを賭けつつしか発言してはならない」と強調する。



私がここで語っていたのは、マイノリティという意味での当事者性のことではなくて、「誰でもおのれの生を生きる当事者なのだから、その意味での当事者性(加担実態)を棚に上げて体裁だけの業績づくりで何かしたつもりになるのはやめてくれ」くらいのことです。当時なぜこんなことを言いたくなったかというと、「ひきこもり」をめぐる医師や学者らの語りに、家族会の皆さん共々しんそこウンザリしていたから。医学や心理学や社会学に詳しくなっても、各人の状況は良くならない。家族会で毎月講師を招いて講演会をすれば専門用語には詳しくなるが、何の役にも立たない。じゃあどうするのか――そこでの試行錯誤が要るのに、学者たちは自分の業績が最優先であってそっちの都合でしか語らない。

ひきこもり問題というのは社会参加の実態をなんとかやりくりしようとしてるわけで――就労してなくても家族の場にいるならそれも社会参加のありようの一つと言える――医師や学者の参加実態を棚に上げて業績づくりだけされても、それはご自分たちの当事者性(加担実態)に関してものを考えたことにはならない、だったら困ってる人にもあんまり役には立たない。そのようなことです。


藤谷悠氏の本論文には依存症の話も出てくるのですが――私じしんがアルコール依存状態になって断酒に至る経緯においても、そこは同じような苦しさがありました。医師や "当事者" の書いた本をあれこれ読み漁ってみても、「どうやったらやめられるか」はまったく書いてない、少なくとも自分がどうすればいいかはまったく分からなかった。それで、けっきょく自分で技法を編み出すしかなかった(形式的禁止)


そうした経緯もあって、私が今もっとも先鋭的に考えているのは《技法論的な当事者性》です。つまり、誰でも何らかの技法を採択して生きている――そこの当事者性を「ない」と言い切れる人は絶対にあり得ない。⇒《技法》ということを核に考えるようになって、「当事者とは誰か」みたいなことも《そういう役割固定でやろうとするのも技法の一種だ》で検討すればよいとなった。その技法で上手くいきそうなら使えばいいが、ダメそうなら別のスタイルを探さざるを得ない。それは技法論的な試行錯誤であって、アカデミズムや理論も「技法の一部」でしかない。


本論文では「ひきこもり学」という語が出てくるのですが、それで何をやろうとしているのかはよく分かりませんでした。私自身は引きこもり問題や依存症への取り組みから《技法》という核心テーマにたどり着き、であればそれは「ひきこもり当事者であるか否か」はどうでもよくて、あらゆる人がすでに(個人や集団として)生きている技法について吟味するということであり、できれば新しい技法を開発する――そういう努力をするのに、"当事者" というレッテルは「それも技法の一部」でしかない。(有害なら捨てればいいが、ただし藤谷氏が指摘するように、自分がレッテルを捨てたつもりでも就職面接などの場で「お前は引きこもりだ」のレッテルが突きつけられる問題は残る。)

 共事者研究という思想は、研究者に対しても当事者に対しても、一定の距離を取ろうとする。それは、研究者として権威的で高尚な言語運用をすることに矜持を抱いたりすることや、あるいは「正しい当事者」としてのプライドを持ってその苦労や悲痛を訴えかける信念を持ったりするような営みとは、全く異なるものである。また、上山和樹のように、「一個人として自分の人生や大事なものを賭けつつしか発言してはならない」などと当事者以外を遠ざけてしまうような「当事者利権」的な態度にも従わない。それらの「まじめ」さから距離を取り、共事者として「ふまじめ」に肩の力を抜いて楽しんで取り組むからこそ、当事者研究とは異なる、共事者研究に特有の「余白」が生まれ、その「余白」に基づく特有の思考も可能になると考えられる。



「共事者」というのは小松理虔氏の造語を本論文著者の藤谷悠氏が採用し、さらにそこから進んで「共事者研究」を提案されています。差別的なレッテルや片務性に悩まされる「当事者」概念に比べて、ずっと良いと感じました。

そもそも私は西暦2000年頃の出発点から "当事者" という語を自己検証や「取り組み直し」の任務とともに考えており、まさにその任務をこそ皆さんと共有したくて当事者論などというのを始めてしまったのですが*5――実際に降りかかってきたのは、「お前は引きこもりだ」という差別的なレッテルと、それに伴う奇妙な片務的保護だった。

つまり、私にとって "当事者" という語は何より加担当事者でありそのことをめぐる(個人的・集団的な)自己検証を意味するので、藤谷氏が言うような「当事者以外を遠ざけてしまうような当事者利権的な態度」の真逆で――むしろまさに "共事者研究" 的なスタンスではないでしょうか。(どうやら藤谷氏は私のいう "当事者" を「マイノリティ役割」に固定したものと勘違いしているので、こういう誤解になっているように思います。私が斎藤環氏に反論したのは、そのような役割固定そのものへの疑義によってであり、「一緒に考えてください」という協働へのお誘いだったわけです。)

藤谷氏の本論文では「当事者」のアイデンティティを引き受けるかどうかという話もあるのですが――最近の私は不登校や引きこもりで自分を何か異常な存在であるかのように思い込むこと自体が「勘違い」にすぎないと思うようになっています。勘違いだし、有害だ。その意味で、《共事者》というのは使い勝手が良さそうです。あるいは私が言う《技法論的当事者性》というのは、まさに共事者的な場のありようを集団的に考え直してみる("共事者研究"的な)提案とも言えそうです。


拙論に言及くださったことにあらためて感謝しつつ、ひとまずこの辺で…。



*1:藤谷悠の注には上山ブログ「2008年1月17日記事」とあるが、実際は2008年10月17日付

*2:藤谷の注にある通り、拙ブログ2017年6月15日記事より。

*3:この箇所に藤谷悠がつけた補注:《同書は林恭子を共同の編者としているため、斎藤のみの手で人選が行われたわけではないだろうが、いずれにしろ編者としての斎藤の役割は著者を選ぶ側として一定の力を持つと考えられる。また林にしても、同書の出版以前から斎藤と共にイベントに登壇するなど、すでに発信力を持った「選ばれた当事者」としての活動を重ねている人物であることも考慮すべきだろう。》 これもまったく妥当な指摘。

*4:『いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり』の読者レビューに同趣旨の指摘があることに気付きました⇒《「良き当事者像」みたいなものを編者はお持ちなのだろうか。泉さんの文章を読んで思ったところで言えば、上山さんのような当事者は「都合の悪い当事者」ということなのだろうか。》⇒参照)。

*5:ラカン精神分析の「分析主体 analysand」や、デリダの「脱構築」という議論に強く影響を受けていました。ところがどうやら、そうした思想の専門家の間ですら、自己検証というのは必要な任務になっていない。