ポジションへの居直り

 上山さんが「専門家による記述の対象」でもある、という事情によっているでしょう。 だからといって、(略) 上山さんが 彼/女たちのなすべきことを・彼/女たちに代わって 行わなければならなくなるわけでもないでしょう。 上山さんには上山さんが、自らの権利において できることが(当然のことながら)あるはずであり、それを為せばよいだけの話です。そしてもしも、それが阻害されるようなことがあるならば、そのときには、上山さんは──たとえば「研究者のポジション」にとってかわろうとすることによって、ではなく──自分自身のポジションにおいて、それに相対すべきでしょう。

    • 仮にそれが「差別を受ける」ポジションであったとしても、その場合にやるべきことは、「差別されないポジション-に移動すること/を獲得すること」ではないですよね?
      • いや、そういう選択肢があったってよいとは思うのですが。 少なくとも上山さんが望んでいるのはそうしたことではないですよね? (「論点3」)

酒井さんが提示くださった問い自体を、固定すべきです。
これは、自分の従わざるを得なくなっている制度との付き合いをどうするか、分岐となる問いです。
「差別される側」から「差別する側」に移行することだけを望む人も多い*1


ひきこもる人の一部は、社会的には蔑まれておりながら、自意識では「高尚な知識人」のつもりでいたりします。 自分も加担する抑圧的な関係実態に切り込むのではなく、「知識人ぽい問題意識」で、自意識だけを高尚な場所に移動させる。 彼らは、身近な関係性を主題化しません*2


私に一方的に「ひきこもり当事者」*3をやらせておいて、ご自分は学問の担い手としてベタな言説支配を押しつけてくる人に、くり返し出会います。
彼らの一部は、私と似たような引きこもり経験を持ってさえいる。 そして「ひきこもり当事者」として振る舞う方がメリットのある場合は、みずからがその役割で果実をむさぼり、そのくせ議論になると、「私は学者だから、上山さんの言説より地位が上です」という。――前回の主張を繰り返しますが、私は一方的に学者を非難しているのではなくて、全てのポジションにおける《居直り》をこそ糾弾しています(それが同時に臨床上の主張にもなっている)。


そして、この私の議論じたいが、一部から「頭でっかち」と言われます。 「当事者は当事者、学者は学者*4」という身分と言葉の関係を話題にすることが、身分上の作法によって禁じられている。


ある議論伝統に従って秩序を論じるとき、その議論が従う秩序に言及することが禁じられ、あるいは話題にしても黙殺されることがあります。 だとすれば、そこで小手先で反感を持たれないように《工夫する》ことは、分断統治に加担することでしかないし、学問の構えそのものに分断の責任があります。
一般理論としての医学や社会学でなく、目の前の関係ロジックを語ることを許してくれないならば、参与の難しさそのものを論じざるを得ないテーマについて――少なくともその苦痛機序について――、語ったことになりません。 それを語れない、自分の順応を誇示する幼児性を専門性と勘違いするのが、ひきこもり周辺の実情です*5。 順応をめぐる苦痛の話をしているのに、その “専門家” たちが、単なる順応モード(要するに秀才くん)でしかない。 これはほとんどブラックジョークです。

    • 私自身がよく「マジメすぎる」と言われるし、それは間違いなく反省すべき点なのですが、注意すべきなのは、「マジメ」の反対は単なる不真面目ではない、ということです。 神経症を嫌う人の中には、ルーズでありさえすればそれが処方箋になると勘違いする人もいますが*6、《ルーズさ》においては、自分が秩序を生きようとするときに反復されるパターンは、実はそのまま温存されています。 ですから、反復する秩序のあり方を変えようと思ったら、むしろ秩序の反復され方を真摯に論じて、具体的に変えてみせる必要がある。 それはそれで “真面目な” 取り組みですが、同じパターンを強迫的に反復するのとは方法論的に全く違ったマジメさです。 私はそれをひたすら話題にしています。


*1:移行しようにも、一度でも引きこもった経験があれば「被差別民」と固定されるのかもしれず、これは本人が自分で決められることではないのですが。

*2:東浩紀宮台真司の言説は、こういうメンタリティに加担しており、だからこそ支持されもする――というのが私の理解です。

*3:特権化されると同時に差別的に隔離される言説ポジション

*4:「親」「支援者」等についても同じことです。

*5:かつて引きこもっていた人が、逸脱経験を持つがゆえにこそ《順応している自分》を誇示する倒錯を、たびたび目にします。

*6:たとえば斎藤環氏は、ひきこもり支援者のうちでも「ルーズな人」を妙に気に入る印象があります。 あるいは「まぁイイじゃん!」が口癖の玄田有史氏も、同じような発想を持っておられるかも。 しかし「フレンドリーさ」は、フレンドリーであることでアリバイを得てしまい、かえって自分のあり方を考え直すことをしません。