(1) 《代表 representation》の問題

  • 「ひきこもるいきさつは多様なのに、一部の人が代表ヅラして語ることで、実際に苦しむ人たちが抑圧される」という、それ自体は正しい意見。 しかしこれは、代表制のウソを自覚したうえで相応の政治的発言を試みたり、内在的に《苦痛の秩序》を分節する作業まで禁じてしまっている。

中には、「異性愛男性である上山さんが発言すると、女性や性的マイノリティの引きこもり当事者が抑圧されるから、黙るべきだ」という意見もありました*1

ここには、

 ひきこもり経験者として実体化される(「これこそが引きこもりだ」)

という当事者論だけがあって、

 本人が内面や状況を分析的に実況中継する*2、内側から責任を考え直す

という当事者性がありません。
発言努力はあっても、「○○当事者」というポジションへの居直りで、特権化や差別があるだけです。 この状況とどう戦うか。


「ひきこもり」だった僕から』という拙著のタイトルも、人を実体化する誤った当事者論に加担しています*3。 私は、間違った当事者論で共犯を働いたことを反省つつ、今はやや違う焦点に取り組んでいます。

    • 「○○当事者だから」と検証もされずに特権化されるのがおかしいのと同様に、「○○学だから」関係責任が免除される、というのもおかしい*4。 許されたり糾弾されたりするあり方を一度ペンディングして、秩序実態を分節し直すことが必要。 【その問い直しは、苦痛緩和のための主体構成の提案にもなっているのですが、これが最も伝わりにくい点でした。私の宿題です。】
    • 私は全てのポジションに対して当事者的な活動を提案していますが(素材化)、いつまでたっても《ひきこもりの代表》を演じる自己顕示と見なされ、発言ポジションもそこに限定される。 というより、私を単に《代表》と見なすことで、「ご自分の関係実態をこそ考え直してください」という呼びかけが抑圧されている*5
    • 当事者性の自覚は、関係責任と欲望への直面であり、いわば地味な制作を必要とする(参照)。 ところが現状では、「誰がスポットライトを浴びるか」というナルシシズムの競争になっている。 【スポットライトの枠は、同時に被差別民の枠でもあります。それゆえ、人を実体化する当事者論は、差別に加担しています。これがどれほど深刻であるかに、支援者や “当事者” たちが気づいていません。】




*1:この意見を述べたかたは、ご自身が異性愛の男性なのですが、私には発言活動を許さないのに、ご自分は「マスコミ取材を受けさせてほしい」と求めていましたから、言い分としては破綻しています。

*2:cf.「自分の思考を強いるものに到達しようとする試み 〜現場に渦巻く情念の的確な実況中継」(三脇康生

*3:拙著が二部構成になっているのは、前半が《素材》であり、後半がその分析になっている、といちおう言えます。 ベタな自己提示ではなく、《体験を素材化する》という努力構造の提示です(当時は、今ほど自覚的ではありませんでしたが)。

*4:場面に応じて《ひきこもり当事者》と《学者》の自分を都合よく使い分け、それぞれの役割恩恵に居直る者もいます。 ここでは、役割を固定することで問い直しが拒絶され、順応主義的な責任回避が嗜癖化しています

*5:たとえば、私にセクシュアリティの告白を要求するある支援者は、ご自分が女性を傷つけたいきさつについては《当事者発言》しません。 「支援される側」にのみつらい発言をさせて、ご自分がセクシュアリティに責任を持つ “当事者” であることを抑圧するわけです。 これは、被差別民にのみ当事者発言をさせる、それ自体が差別的な振る舞いでしかありません。 ▼性的関係性の実態を問い直したいのであれば、むしろ健常とされる人たちの実態こそが、容赦なく検証されるべきでしょう。 ところが彼らは、自分たちについては口をつぐみ(問われる必要のない正常さと見なし)、マイノリティへの覗き見趣味だけを満足させるわけです