(2) 《正常な社会参加》という保守的な理念

つながりの作法を自覚しない関係性では、同じ正当化のパターンが反復されており、その意味での順応主義が当然視されています*1。 逸脱者に受容的な共同体でも、そのコミュニティ内部の《つながりの作法》は絶対的であり、そこからの逸脱は糾弾の対象になります。
そうしたベタな関係性では、順応努力そのものに生じる苦痛機序は、考察されるチャンスがありません。 固定された問題意識のフレームが、ほんらい必要な(換骨奪胎的な)問題意識を排除しています。

    • 弱者擁護のイデオロギーを反復してさえいれば、いくら差別的でもコミュニティに受け入れられる。――ここで抵抗するには、差別発言を行なった個人だけを攻撃してもダメで、人のつながりが反復する作法そのものと戦わねばなりません。 とりわけ、差別反対を建前とする左翼コミュニティに骨の髄まで蔓延する差別主義については、共同体の根本体質から問い直さねばならず、この問いを抜きに差別がどうだと論じても、まったくのゴミです。 論者本人のアリバイ工作にすぎない。
    • 継続参加ができないひきこもり問題では、《正常な参加》それ自体を問い直す必要がありますが*2、自分たちの共同性のあり方を信じて疑わない人たちは、支援対象者(逸脱者)を名詞的に実体化・特別扱いしたうえで、この者を単に自分たちの作法に合流させようとします。 それゆえ、ベタで無力な逸脱は許されるが、関係作法そのものを考え直すことは許し難い逸脱とされる*3。 存在は受容されるが、言葉は排除される(参照)。
    • 「ひきこもり当事者」なら身分支配を受けるべきだし、「健常者」なら黙って順応せよ――この状況を言語化する作業(そういう形で始めてしまった社会参加)は、意味のないプライベートな難解さか、反社会的な逸脱としか見なされません。



彼らの支援論にあっては、人は「本当に引きこもっているか、それともすでに合流しているか」のどちらかであって、《ひきこもり》というテーマそのものに踏みとどまって考え直すことは、不当な嗜癖に過ぎないとされます*4。 とはいえこれは当たり前でもあって、自前の制作過程を内側から立ち上げてしまうと、どうしても政治化するため、ベタな受容は期待できません。



*1:すでにある作法だけが《正常》と見なされるのは、保守ばかりではありません。 事後的な再検証を拒絶するスタイルが、それぞれの集団的ナルシシズムのパターンになっています。(たとえば宮台真司氏の読者では、「あえて」という言い訳が嗜癖化し、事後的な再検証を拒絶しています。)

*2:《主体構成のあり方》が苦痛機序の一環である点で、部落や民族、ジェンダーやセクシュアル・マイノリティなど、ほかのマイノリティ問題とも事情が違っています。 精神の疾患や障害をめぐる既存の左翼言説は、《他者の存在を受容する規範言説》ですが、主観構成のあり方そのものが内在的に苦痛要因になっている場合は、単に《他者を受容する》では足りません。 そしてむしろ、他者の全面受容などできるわけがない(それは強制労働に過ぎない)。 ▼知的言説の構成のされ方は、「学問の方法論」であるばかりでなく、主観構成のあり方や、他者との関係性のあり方まで規定してしまいます。

*3:ありていに言えば、「精神疾患者は許されても、政治犯は許されない」。

*4:工藤定次脱!ひきこもり』の「はじめに」や、『月刊少年育成』(2004年8月号)掲載の座談会「「ひきこもり」議論がうっとうしい」 では、ひきこもり経験者がひきこもりを論じることが、内容面に関して批判されるのではなく、行為そのものとして否定されています