当事者的な分析の条件

拙エントリーに、稲葉振一郎氏からいただいたコメント(参照)より:

id:shinichiroinaba : 臆面もないルサンチマンというより権力志向が醜悪を通り越して滑稽

どういうつもりか知りませんが、暴言には付き合いません。
泣き寝入りするつもりもありません。



先日記したように(参照)、私は既存の《学問/支援/被支援者》という役割の不当な居直りに、苦痛の温床を見ています。

  • 「権力者は誰か」ではなく、努力が反復するパターンの固着が問題です。
  • いわば、アリバイを目指す努力のスタイルが間違っている。
    • ひきこもる人は、意識が反復する《正当化のスタイル》そのものが固着している。 状態像の前に、正しさの求め方が主題にならなければ。 でないと、「努力すればするほどドツボにハマる」という苦痛機序を主題化できません。 私はもう何年も、この話ばかりしています。



理不尽な言動があっても、「これは学問だから」「これは弱者支援だから」で全てなかったことにされ、検証される前にアリバイがあることになっている。 私はその不当さや臨床上の害悪を問題にし、《その都度の関係実態について、ディテールの分析と具体的な組み換えが必要だ》と言っているのですが*1、それはどうやら、役割や学問に居直る人には受け入れがたいらしい(アリバイのフォーマットそのものに壊乱をもたらすため、危険な発言に見えてしまう)。


たとえば私が、拙いなりに学問伝統に則った問いに終始していれば、「権力志向」とは言われなかったでしょう。 勉強不足等を責められることはあっても、言説事業としては《問いの体制》を共有していることになるから。 これこそが権力の問題です。
みずからの既得権が依拠する問いの体制におもねり、順応主義的な言説生産を重ねることこそが、醜悪で自閉的な権力志向のナルシシズムです。 私で言えば、単に弱者ポジションや左翼イデオロギーに居直ること。 また、医師や学者が業界内のフォーマットを踏襲すれば、実態を無視していても「業績」にはなるし、同僚から祝福もされるでしょう。 私は、こうした「居直り型の権力」をこそ問題にしています*2


以前「ニート」への政策対応が話題になったときの、稲葉氏のご発言から(強調は引用者)

 たしかに、時にニート層の人々自身の「責任」を問う方向にぶれる玄田に対して、あくまでもそれを否定しようとする内藤、本田の気分には共感できるし、それは健全だと思う。しかし代わりに企業や学校の「責任」を問い、そこに問題の核心を見出すのであれば、筋違いではないか、とリフレ派としては考えざるを得ない。仮にそうした不毛な「悪者探し」をするのではなく、誰も責任を取らない/取れない隙間に落っこちてしまった人々のエンパワメントを目指すのだとしても、それは要するに再分配であり、そのための財源を十分にとりたいのであれば、やはり先立つものは金であり、景気総体の回復である

私がしているのは、「気分」などという曖昧な話ではないし、
為すべきことを曖昧にしたまま、「大文字の犯人探し」をしているのでもありません。


私は、人間の関わりに別の配慮が導入されるよう、努力のあり方それ自体を別様に描こうとしています。 規範的に「これをすべきだ」のみならず、たとえばライフログアーカイブ参照)は、「それがあれば、おのずと配慮のしかたは変わるのではないか」という想定です。


既存学問の問いに殉じても、苦痛機序に取り組んだことにならない。
そこにいくら予算をつぎ込んでも、ダダ漏れです。
景気の良い時期にも引きこもる人はたくさんいたのですから(参照)、稲葉氏の発言は、「景気で対応できる部分しか考えない」と言ってるだけです。 そして、「景気が良くなれば大丈夫」で問いを終わらせる人が、苦痛機序そのものと原理的に格闘する私を「権力志向」と糾弾する。――ここには、本物の問いの政治があるというべきです。



権力分析「について」論じるが、権力分析はしない人たち



問いの固着とそれに基づく関係作法こそが苦痛機序なのに、それをほったらかしにして、「逸脱者」を「話題にする」。 すると、アカデミック・サークルからは「考えている」ことにしてもらえる。 私はそのルーチンの弊害を論じています。

    • 学者や支援者は、メタ言説(制度的権力)
    • 被支援者には、「告白」が強いられる

期待される発言が身分で固定されており、
この役割固定そのものが、視線と言説を委縮させている。



稲葉氏は、「統治と生の技法」を解説しているのに(参照)、ご自分の言説がどういう関係性の反復を前提にしているかは分析しません。 「権力分析についての授業」はしますが、ご自身の関係性が実際に検証されることは、テーマとしてすら許さない(即座に「権力志向」と断罪する)。 こうした大学的知性の固着的なあり方こそが、臨床上の害悪です。


彼らのバックには大学組織や学問制度が控えているので、社会参加に苦しむ誰かを潰したところで、痛くも痒くもない――それに抵抗し、彼らにすら《当事者的な権力分析》を強いる環境条件は何か。
これは、「おのずから柔軟な分析ができる環境になれば、委縮した人たちにも臨床的な恩恵になる」ということです。 現状のまま規範的な呼びかけをしても、学者や引きこもる人が従うわけがない。(《制度を使った方法論》だけでは、この問いに答えが出ていません。)

 逸脱した個人が社会復帰するには、既存の関係作法を疑ってはならない

――そういう居直りが、左翼系コミュニティにおいてすら、差別や暴力を生んでいます。
「実際にどんな関係が生きられているか」に問い直しのチャンスがなく、学問や politically correct をアリバイにした強権で押し切られる。(大多数がその作法に従っているので、これは稲葉氏だけの問題ではありません。)

私は思想を、アリバイとしての《右/左》ではなく、「関係性への検証の有無(そのための技術や方法を考えているか)」で見分けています。 ライフログアーカイブ関係性を素材化する可能性を開けば、PC 的に確保したアリバイもいちど手放さなければいけませんから(判断停止)、これはメタ言説に居直る人たちからは、「やってはいけないこと」と見なされる*3

    • 学者の立場にある方々も、さまざまに理不尽な関係実態に苦しんでおられると思いますし、ひきこもる人がメタ言説のパターンを模倣してふんぞり返ったりもしているので、これは単に属性によるポジションで区分けしているのではありません。



権力分析「について」論じる者が、ご自分の生きる権力パターンは分析させない――こんな居直りに譲歩するなら、ひきこもりの苦痛機序について、何も考えたことになりません。
その譲歩は、社会参加の実態を改善する努力の放棄でもあります。



*1:形式的なイデオロギーとして差別やいじめに反対しても、またそれ自体が《硬直したパターン》になります。

*2:「ひきこもり」の委縮した意識を考える場合には、制度順応はそれ自体として十分なアリバイではなく、むしろ必要な配慮を裏切ることですらあり得る。 とは言えもちろん、手続きの問題を無視することはできません。

*3:私が現実に受けている脅しは、常にこの問題の周囲にありますが、そのこと自体がライフログとして蓄積されています。