正当性の生産様式

「自分は成功していると主張する商品の詐欺的自己主張」――社会化がそういう形をしている。


意識が生産過程なら、そこには生産様式がある。 意識の努力が、どういう生産様式をしているか。
たとえ単独であっても、また集団に組織されるあり方においても。(生産過程が組織されるあり方が生産様式。資本制的生産様式では、生産過程は「商品の生産」というかたちをとる。)


労働過程がもつ正当化の様式。すなわち、社会化される様式。
抽象的価値を自称する商品生産的スタイルが支配的になっている。目の前の関係を語ることは、確保された価値を毀損し曝露的に働いてしまうため、徹底的に忌避される。 「身内の瑕疵」を隠蔽して作り笑いすることが社会性なのだ*1


ハイデガーメルロ=ポンティは、凡庸な正当化の騒音を無視し、事物の静寂を聴こうとする。 聴こうとする=「破壊してもういちど建て直す」。 しかしそれも、「そういう」生産様式。 誰のために必要な生産過程であり生産物か*2
プロセスと結果物は、集団的意思決定を迫られる緊張感の中にある。 結果物だけについて民主主義を論じるのでなく(それなら商品生産しかない)、生産過程の様式を話題にする合意形成論が要る。 自分の足元を分析しない、いわば当事者意識を欠いた罵り合いとは別の分析*3


正当性の生産様式を問題にしなければ。 いきなり「これは正しいか」と問うのは、周囲の生産様式に迎合し(無自覚にルーティンに嵌まり)、その生産様式に疎外されただけ。 超越神も歴史必然も見えない場所では、「どういう指針で正当化するのか」も再帰的に問われている。単に科学であればよいと言っても、科学は自分という意識のプロセスをそれ自体として対象化できない。史的唯物論が「科学的」と自称したことの安易さ。


疎外は、人格支配というより、固定された生産様式にある。労働過程は、おのれの気づきを無視して何を目指しているのか。
膨大な予算を使って意味のない生産過程をひたすら反復し、それが「仕事をしました」のアリバイとして誇示される。 「そんな生産過程は重要ではない」*4と言うと、多くの者のアリバイを奪うことになる。彼らは、アリバイを守るために使用価値レベルの関係性を無視する*5。 正当性それ自体が形而上的に確保される。


制度分析や分裂性分析は、価値形態論のような分析を生活場面のあらゆる場所で演じることを意味する*6。 社会化のロジックを分析することは、暴露的に機能する。この分析を、「まっとうな社会生活者」は恐れる。


嗜癖を、「主観性の生産様式が固着している」と理解する。 過剰に再帰的・流動的であるゆえに、どうしていいか分からず固着する。 宗教をバカにして終らせる左翼は、自分の意識が党派的正当性を反復するだけの(宗教的に固着した)意識であることに気づいていない。
本当に根拠を見失った実存は、自由な柔軟さを手に入れるというより、危機に見舞われて硬直する(無神論のカルト化)。 主観性のフレーム問題に、幼稚きわまりない居直り戦術でしか対処できていない。
生産様式の新しい提案は、具体的成果で示すしかない。(様式の集団的改編は、一気にはできない)



*1:ひきこもる人が社会復帰するときに、「曝露的に」動いてしまっては復帰できない。しかし《分析=曝露》を諦めれば、順応主義でしかない。

*2:旧来の議論はここですぐに「労働者階級のために」、「労働者階級であるがゆえに認識できる」という話になって思考停止した(認識の党派性)。 ここでも、見えない当事者論が独特の役割を果たしている。

*3:これまでの「当事者意識」は、せいぜい「我こそはプロレタリアだ」でしかなかった。 「俺はプロレタリアだ(その権利を代弁している)。お前はプチブル的だ」と言っておけば済んだことにされた。 ここには居直りだけがあって、その正当化スタイルを選択している自分じしんについての当事者意識はない。

*4:「王様は裸だ」

*5:関係性の事後的検証も許されない。 「せっかく価値のアリバイを確保したのに…」

*6:無色透明ではあり得ない法廷をあらゆる場面でやり直すこと――だとすれば、強制力や手続きはどうするか。