臨床活動としての正義(メモ)

中山竜一氏『二十世紀の法思想 (岩波テキストブックス)』より:

 「正義」という表現の漢語としての語義は、『広辞苑』によれば「正しいすじみち、人がふみおこなうべき正しい道」という意味で、そもそも荀子の言葉に端を発するものだそうである。そうした漢字の語義に引っ張られ、正義を個人や国家の道義的レベルに引きつけて理解しがちなわれわれ日本人にとっては、「私の正義」といったケルゼンの言葉のほうがむしろ親しみやすく、わかりやすいように思われる。しかし、こうした漢語のニュアンスこそ、ギリシャ=ローマ以来の法的伝統における「正義」概念を理解しようとする際の躓きの石となっているとも言えるのではなかろうか。各人のものを各人に、あるいは、配分や交換における公平性という意味において「正義」というものを押さえていなければ、最近よく耳にするようになった「世代間正義」といった表現すら理解できないだろう。 (p.104)



社会参加がうまくいかないときには、固着した理不尽感や無力さがネックになる。
そこでは、成功地点からつながりを要求すればよいのではなく*1、関係性をどう作っていくか、そのスタイルこそが問われている(単に繋がろうとすると、古い主観性や関係パターンを反復してしまう)。
DSM や精神薬理だけで「仕事をした」というアリバイを得る人たちがいるが、それはむしろ不正義の制度的反復かもしれない*2


ふつう正義というと、「弱者を擁護するアリバイ」となる。 大文字の正義に依拠していれば、目の前の関係を無視してふんぞり返れる、と*3。 しかしこれでは、生きられた関係が反復するパターンを分析できない。(不正義はむしろ、その固着したパターンにこそある)



正義を、内側から生きられる臨床活動と理解し、彫琢する必要がある。 精神医療が政治的だとすれば、「こちらには臨床があって、それとは別に政治がある」とは言えない。 臨床活動は内在的に政治的であり、そうでなければ有効に機能できない。 だとすれば、有益な臨床活動を《正義の活動そのもの》と理解することも、さほど突飛ではないはずだ。


単なる再分配ではなく、分析的な生産や介入としての「ふさわしいものをふさわしい場所に」*4。 ふさわしいものが構造的にふさわしい場所にいられないなら、破壊して建て直すしかない*5
そこではスタティックに確認される正義より、プロセスとして生きられる正義が問われる*6。 「支援者」ばかりでなく、悩む本人が内側から生きることを問われる正義。 正義としての当事者意識を、内在的に生きられるかどうか*7


一般概念としての正義を押しつければ、その押し付けた行為が正義になるわけではない。 かといって単なる妥協(巻き込まれ)も、正義の活動とは言えない*8。 そのつどその場で、細かい事情を分析しなければならない。 大文字の権利を連呼するのではなく、ケースごとの分析を提示する活動が必要だ(参照)。 それは本質的な意味での《曝露》と呼べる(参照)。


主観性と集団を同時に素材化する精神療法(参照)は、単なる順法精神や legal mind とは別に、過程的な正義を生きることになる*9。 そして正義には、手続きと技法が要る。



*1:見下しや自慢話に終始する人は、おのれが生きている関係性をまったく分析させず、単に完成形に向けて急き立てる。 《つながりかた》こそが問題だというのに。

*2:不正義の制度的反復が、「シゴト」と呼ばれていることがある。 ▼また逆にいうと、ひきこもり状態それ自体を、「不正義の制度的固着」と理解することが有益であり得る。 ひきこもりを「治療」したり、特別扱いしたりするのではなく、「不正義の固着」という同じ観点から、周囲の環境ごと検証すること。

*3:そういう居直りが機能する局面もあるだろうが、そういうことも含めて分析できるスタンスが要る。

*4:無意識の生産(ドゥルーズ/ガタリ)や、ラカン的な欲望の倫理(「欲望に関して譲歩するな」)を、ここで思い出せないか。

*5:脱構築は正義である」と語ったデリダ参照)や、「内的な法を受け入れてみずからを創設しようとするもうひとつの集団」を語ったガタリ参照)など。

*6:「正義論をするプロセスは正義の遂行になっていないかもしれない」という問いは、演繹的確認に没頭する主観性には見えなくなっている。 (場合によっては演繹が必要だとしても、それは必要な活動の「部分を構成するプロセス」にすぎない。ところが多くの議論は、最初からメタしか見ていない。)

*7:不当な被害者役割に居直るだけの「当事者意識」は、むしろ不正義の固着にあたる。

*8:居直りや巻き込まれを許せば、恣意的ふるまいににビクビク脅えることにしかならない(その脅えも、規範に縛られたナルシシズムに支配されている)。 正義として機能する柔軟さには、戦術計算が要る。

*9:ウリ/ガタリの制度分析や分裂分析を、「正義を生きるプロセス」と言えるかどうか。