至近距離の公正さ、という臨床課題

「正しい側よりも、弱い側につきたい」――このロジックに徹底的に抑圧されてきたことにようやく気付いた。

正しいことを言っても、分析的に発言している時点で、「より強い立場にいるから」責められる。間違っているから責められるのではなく、むしろ「正しいから」責められる*1


公正さというと、ふつうは制度設計論になっている。しかし社会参加への取り組みを細かく考えるなら、身近な関係での公正さがどうしても要る。親密圏において、あるいは職場において。この身近なマネジメントが徹底して不正義の反復になる、むしろ不正義こそが「正義」の名で語られる。そこへの批判が暗に禁止され、ひどい目に遭った人はひたすら我慢するしかない*2――この許しがたさを誰も言葉にできていない。


身近な関係に有益な合意は、かならずしも第三者的にはフェアではない。利権とナルシシズムの持ち合いにはそれでよくても、公の場所で検証されたらひとたまりもない――そんな言い分がまかり通る。その関係が「支援」と呼ばれる。


正義論をする人たちは、ご自分のナルシシズムについては一切分析させない。彼らの言説は、「正義を語ることで自分のことは不問にする」という指針を維持しており(メタ言説)、論者じしんの関係性への疑問は排除されてしまう*3。 ところが引きこもりをめぐる関係性では、身近な関係にこそ不正義があり、それが主観性の固着に直結している*4

この固着や不正義を内側から問題にするには、相応の環境が要る。 閉じた集団では、疑問は無視され、「なかったこと」にされる。 表面的で涼しげな会話が続き、本質的な問題提起をしたとたん排除される。 開かれた政治意識こそが叩かれる:「お前が仲間でいるためには、正しいことを言ってはいけない」。


社会参加のできなさは、目の前の関係を論じることへの集団的禁止にかかわる。 「働くかどうか」という自意識の問いではなく*5、働くことで巻き込まれる関係を直接話題にできる関係性が要る――単に特別扱いするのではなく、「関係性を話題にしてよい」という労働機会こそが要る*6

現状では、支援それ自体が《関係性を主題化することの禁止》で成り立つため、「支援したければ議論はあきらめろ」になる。これでは、いつまでたっても核心が論じられない。決定的な原因事情を温存したまま支援を論じても、それはマッチポンプでしかない。(ここでは、「引き出すかどうか」は二次的な問題になる。「引き出さない」としても、そこで維持される関係が公正ではないなら、話にならない*7。公正さの検証が、時間的にも空間的にもマイクロレベルの目を必要としている。)


肩書きに関係なく、各個人が目撃者=分析者になり、政治化すること。 それ以外の “治癒=参加” は、不当な特別扱いや利用関係にしかならない。 「政治化」が弱者役割への居直りでしかないなら、原理的なメカニズムは放置される。
今は関係臨床で扱うべき事例が、役割理論で処理されている(なぜなら、そうしないと医師や学者の共同体に受け入れられないから⇒役割理論に乗っかって不当なことをすると黙認されてしまう)。




問い

  • 他者性の問題が、関係臨床上のテーマになる。不正なあり方をしなければ包摂できないような個人を、それでも支援するべきだろうか。具体的には、社会保障の不正受給問題。
  • そもそも “本質的な問題提起” は、共同体内では「包摂するべきではない他者(不正な問いを行なう者)」として現れる。
  • 政策レベルの不正では、至近距離を論じてもしょうがない。制度そのものが問いとなって現れる(参照)――しかし、わけのわからない政策は、専門家業界のロジックで決められる。 ⇒専門家どうしの至近距離の成り立ちが問われる。
  • 「身近な関係を論じてさえいれば許される」という思い込みも、また検証なき自己確保になる。 技法や手続きが要る。




*1:「しっかり考えられるなんて」。 そして、関係嗜癖的なあり方だけが評価される。

*2:告発しようとすると、「私のほうがもっとひどい目に遭っている」「生意気だ」とされる。 「ひきこもり当事者」は、公的に批判してはいけない相手になっており(だから水面下で叩かれる)、その裏側として、どんな自律的な問題意識も許されていない(何を言っても「人格障害者ですから」と目配せされる)。 役割上、知的障害者や異常者の扱いを受けることになる。 ▼これが身近な関係において、どれほどグロテスクな政治であるか。それを無視して「支援論」などしても、すべて上滑りでしかない。

*3:論文作法として、いわば「生産態勢として」禁止される。 別の問題意識を導入した時点で、いわば操業がストップされてしまう(参照)。 つまり医師や学者の業界作法が、ひきこもり問題の核心を主題化することを禁じている。 「問題提起をすることによって排除されてしまう」という構図が、ここにもある。

*4:斎藤環のいう「ひきこもりシステム」の直接のメカニズム。それを名指しはしても、斎藤の議論は主観性を固着させるため、完全にマッチポンプの形をしている。 「変われば変わるほど変わらない」という彼のモットーは、居直り的に周囲を巻き込んだ引きこもり宣言にあたる(ここに彼の強迫観念がある)。 むしろ必要なのは、分節されざるを得ない理解や改編を通じて、「目撃体験がいつの間にか変わってしまう」ということだ(孤立した認知としてではなく、集団的に反復される作法として)。

*5:「生き延びることをあきらめれば働かなくてよい」――そういう漠然とした、大きすぎる自意識の問いにしかならない。そのくせ、問いとしてはシビアなふりをしてる。

*6:樋口明彦のいう 「社会関係の再分配」 「ケアの配分」 を、ここで考えられないか。

*7:「ひきこもりの全面肯定」(参照)は、ご家族への強制労働(ひきこもり環境への流刑的監禁)になる。 「家庭内暴力をせずにいてくれれば、永遠に養うべき」だろうか。――では、ご両親が引きこもりたくなったときには?