問いの固着

石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』に対する、酒井さんのコメントより:

 この箇所とか、自分にとっては──「世の中には こういう考え方もあるのか!」的な意味で──衝撃的だった。[p.143-144]  参照

このご発言がこたえました。
というのも、私は石川氏が描こうとされている考え方のパターンが、

    • 説明すればすぐに通じるし、多くはすでに共有されている考え方

という前提をもって、エスノメソドロジーへの質問や、酒井さんへのお返事を書いていたので。それなら、私が何を論じようとしているか自体が伝わらないのは、当然かもしれず。(考えてみれば、ひきこもりを論じるたびごとに、こういうことをくり返してきたはずでした。)*1

「気持ちを分かってもらう」とは別のレベルで、《基本事情を受け止めたうえで為した仕事が、何をやってるのか理解されない》というのは、呼びかけを行うにあたって危険なことです。

 読んでる最中、ずっと気になっていたのはヤンキーのことなんだけど、「ヤンキー」と「ひきこもり」を対比した論考とかないのかな。 参照

    • 土井隆義友だち地獄 (ちくま新書)』には引きこもり系・ヤンキー系の双方に言及がありますが、どちらも「優しい関係」(土井氏)に向かう、同じ流れで捉えられています。



私はこれらの研究に刺激も受けつつ、本当に必要な分析は別にあることを強調しています。

ひきこもりとヤンキーの対比は、「逸脱研究」という問いの作法が先にあって、そこから若者を見ようとする、メタ視点への欲望でしょうか。 私は、「これを考えれば仕事をしたことになる」という、その問いのフレームが固定されていることをこそ問いたいのですが…。 つまり「逸脱者を論じる」視線の、制度的固定です。
前にも挙げましたが、「ひきこもり臨床論としての美術批評」。 誰かを「アウトサイダー」として論じるのは、視線としての自分を《内側》と前提する、最初から制度的な身振りです。


かといって、そう論じれば私が「安泰な反体制」に立てるのではなく、私が生きる視線も、常に権力的な固着を生きる。 事実として社会参加できずにいるかどうかではなく、本人がすっかり排除されていても、その視線は権力的に自閉し得る。 むしろ、だから委縮している。 順応主義的な自分の問いが自分を監禁している。

 「別に就職しなくてもいいじゃない?とは思わなかった?」という質問を投げかけると、「そう思えてたら最初からひきこもりには、なってないですね」という答えが返ってきた。 (石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉』p.143)

であれば、不当に固着する視線を柔軟に組み替えることが、苦痛緩和の意味をもちます。
「ひきこもる人は弱者だが、学者は悪」という二項対立ではなく、学者や医師が生きる《問いの固着》は、ひきこもる人の《問いの固着》を、かえって悪化させている――私はこの話を、ずっとしています。


政策論や、ある種の政治意識の涵養のために、すでにある社会学の問題意識に有益さはあり得ると思いますが、しかし今のところ、それ以外の問いのたて方が、あまりに気づかれていません。 考えようとした人が、みな驚くほど同じ問いの構図にはまり込み、それ以外の取り組み方があると思われていない、そのことがまずい。



*1:石川氏の記述の価値は、私がこれまで考えていたより大きい。

*2:この本を訳された山田潤氏は、不登校問題で長く尽力され、「無理に登校させられる」ことのひどい葛藤にずっと付き合ってこられた方です。