問い直しの原動力としての《存在論的不安》

再読。
〔本書に関してではなく、まずは一般論としてだが、〕 自分の生きた関係と主観性をなかったことにし、「客観的に」論じる人たち*1は、自分が何をしているかに気づいていない。 とりわけ引きこもりでは、具体的なつながりこそが最も困難な点だというのに、そこで何があったかを誤魔化すならそんなもののどこが「ひきこもり研究」なのか*2。 失敗をも含むやりとりや、研究を続けるために利用した関係テクニックを報告できない*3神様目線の「参与」は、臨床上の害になる。 押し付けられるメタ言語が、ひきこもりのメカニズムで共犯者になるからだ。


筆者の石川良子氏は、ご自分には引きこもり経験がないことを明かしたうえで自助グループほかにアクセスし、ご自分の生きづらさを(単なる戦略ではなく自分の問題として)相手に伝えながら、関係性を手探りしたいきさつを報告されている。 私はさらに突っ込んだ分析を読みたいと思ったが、それでは今度は、社会学の体裁を失うことになるのだろうか。――むしろ本書から立ちあがってくる本当の問いは、ここにあるように思われる。つまり、主観性と関係性をめぐる問いを核心とする「ひきこもり」は、社会学におのれの営みがなんであるか、その実態分析を突きつけざるを得ない。もしその論点が(学問の構造上)禁じられてしまうなら、真に問われるべきは学問と引きこもりの関係そのものであって、ひきこもりを論じるのは、そのあとになる。(むしろひきこもりは、学問に不可避にその問いをつきつける、そのようなものとして現れていることが記述されるべき。)


本書の議論は、ひとまず「個人が悪いのか、社会が悪いのか」を往復し、石川氏が実はすでに苦しんでいるはずの葛藤――研究者としてこの問題に取り組むことが、どのように難しいのか――を主題化してはいない(むしろそれを考えることが、結果として引きこもりの実態をあぶり出すことにもなるはずだ)。 最大のカギであるにもかかわらず知的言説から放置され、それゆえ論じるための語彙すら用意されていない《つながりかた》というモチーフ*4は、今後の課題になる。


とはいえ本書は、ヒントを与えている。 長期にわたる地道な調査のリアリティ*5にくわえ、最終章の《存在論的不安》の記述だ。 石川氏はそれを、ひきこもった経験のない人とも地続きの葛藤であると論じる。

 後期近代社会としての現代社会をともに生きている存在として、つまりは物質的・存在論的な不安定さのゆえに〈実存的疑問〉への対峙を余儀なくされている存在として、「ひきこもり」の当事者と非当事者は同じ地平にある。 (本書p.242)

ではそこで、問題になっている《存在論的不安》とは何か。

 ギデンズによれば、「実存的問題に無意識や実践的意識のレベルで「答え」を持っているということ」が「存在論的に安心であるということ」だ。 (同書p.219)

 「ひきこもり」は存在論的不安の観点から理解することができる。 つまり、当事者にとって〈社会参加〉が難しいのは、〈実存的疑問〉に直接対峙している(対峙せざるをえなくなっている)ためだと捉えられる、ということだ。 (同p.221)



ここで存在論的と呼ばれている不安は、具体的に対象のあるものではない(参照)。 むしろ対象のない過剰さであり、それが関係ルーティンへの原理的疑いとして機能する。 難しいのは、ひきこもりではこの《疑い》がかたちを変えて強迫化し、嗜癖的に固着してしまうことだ。

 ロナルド・D・レインは「存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精一杯」だと述べている。 (本書p.224)



本書では(たとえばGさんの語りなどを通じて)*6、実存のルーティンを固定することの積極的意義が指摘されている*7

 ルーティーンを維持することは存在論的な不安を抑えることに役立つ。 玄田有史が「ニート」への処方箋として提示した “とりあえず働いてみる” という選択肢や、規則正しい生活リズムの獲得といったことは、いったん〈実存的疑問〉を棚上げしてルーティーンを立て直すというルートから存在論的安心にアプローチしようとするものとして位置づけられる。 だが、真正面から〈実存的疑問〉に取り組むというアプローチが、もっと尊重されるべきではないだろうか。 (同p.224)



もんだいは、《実存的疑問に取り組む》ことが、つねに同じパターンにはまり込み、疑問それ自体が嗜癖化することだ。 それゆえ、単に何らかのルーティンを押しつけるのはまずいにしても、自由な葛藤を推奨するだけでは、問題を反復することにしかならない。


詳しい説明はまた試みるとして、大きくは次のようなことだ。

    • 存在論的不安への埋め合わせとして、同時代全体がメタ言説に嗜癖している。
    • 「自由に」悩むことが、いつの間にか集団的なパターンを反復する。
    • いわば実存が、社会のふるまいを反復してしまう


 “かれら” と “私たち” が共有するものを見出し、そのうえで「ひきこもり」を排除させるような社会の構造や、価値規範を徐々に見直すことから始めるしかない。 それは、ひきこもることが当事者にとって生き方を編み直す契機になっているのと同じように、個々人の生き方や社会のあり様を見直し、再編成してゆく契機として「ひきこもり」を位置づけることにほかならないだろう。 ギデンズもまた、経験の隔離の過程で「抑圧されたものの回帰」」は「社会制度の再構成を要請」すると述べている。 「ひきこもり」を自分の現実から、社会から排除しようとするのではなく、そしてまた支援の名のもとに介入するのでもなく、理解することのなかに、より生きやすい社会の可能性が見出されるはずだ。 (同書p.244)



ひきこもる人とそうでない人は、いっしょに現実を作り続けている。 その現実を、なんとか協力して組み替えながら生きられないものか*8。 そのとき存在論的不安は、現状に対する過剰性として、むしろ改編の原動力になるはずだ。



*1:医師、支援者、研究者、一般論者だけでなく、ひきこもり経験者自身をふくむ。さらに、私自身がメタ目線に陥らないということでもない。目の前の関係は、つねに分析課題として現れる。そこで展開されるディテールをもった分析は、慢性的にメタに居座って神様目線をやり続けることとは、メタの位置づけが違う。

*2:調査対象者と社会学者の間に何があったか、それこそが研究材料として最重要のはずだ。 ある社会学者による「ひきこもり研究」を、別のかたが研究材料にすることが(冗談ではなく)必要ではないだろうか。――それが現状のディシプリンで出来ないと言うなら、少なくとも引きこもり問題については、社会学に期待できるものがあまりなくなってしまう。 つまり、ひきこもりで最重要の論点が、社会学では禁じられてしまう(そういう問題意識をもった時点でそれは社会学ではないとされる)というなら。

*3:その報告ができるためには、調査対象者の側にも、「関係性の事後的検証」を許す姿勢が要る。 実際に生きられる関係性については、最初からメタに立てる人間など一人もいないのだから。

*4:主観性と関係性の同時発生的状況をあつかおうとしても、「コミュニケーション能力」などの一元化された(偏差値的な)用語しかない。 関係性の質的側面を論じなければならないのに、これでは語彙が貧しすぎる。

*5:当時の事情を知る者には、雰囲気がフラッシュバックするようなディテールがある

*6:Gさんがすでに家事労働に言及しておられたのは(p.211)嬉しい驚きだった。 前回通読時には重要さに気づけず。

*7:ひきこもらずにいるかたは、どこかで実存のルーティンを固定し(形式的禁止)、それを支えておられる。

*8:ひきこもりを単に「全面肯定」しても(参照)、「忘れろ」と言っても、努力そのものが反復する固着の問題は扱えない。 “誠実に” 悩み始めた瞬間に、またしても同じフレームを反復してしまうのだから、悩むフレームそれ自体(の嗜癖的固着)を主題化しなければ、問題に取り組んだことにならない。