存在論的な《不安》

ハイデガー存在と時間』の、以下の節より*1

    • 第40節 「現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性」*2
    • 第68節(b) 「情状性の時間性」*3



 現存在はおのれ自身に直面してそこから頽落(たいらく)しつつ逃避するという言い方が了解されるためには、現存在というこの存在者の根本機構としての世界内存在が想起されなければならない。不安の対象は世界内存在そのものなのである。不安がそれに対して不安がる当の対象は、恐れがそれに対して恐ろしがる当の対象から、どのように現象的に区別されるのであろうか。不安の対象はいかなる世界内部的な存在者でもない。だから、不安の対象でもっては本質上いかなる適所性も得られないのである。おびやかしは、なんらかの特殊な現事実的な存在しうることに明確に着目しつつおびやかされたものを襲うような、そうした特定の有害性という性格をもってはいない。不安の対象は完全に無規定的なのである。この無規定性は、いかなる世界内部的な存在者が脅威をおよぼすのかを、現事実的に決定しないでおくばかりではなく、そもそも世界内部的な存在者は「重要」でないということにほかならない。世界の内部で道具的に存在していたり事物的に存在していたりするものは、何ひとつとして、不安がそれに対して不安がるものの機能を果たしはしないのである。道具的存在者や事物的存在者の世界内部的に暴露された適所全体性は、そのものとしてはそもそも重要性をもたないのである。そうした適所全体性は、それ自身において崩壊する。世界は完全な無意義性という性格をもつのである。 (p.323)


 だから不安は、おびやかすものがそのほうから近づいてくる特定の「ここ」や「あそこ」を「見てとる」こともない。おびやかしを及ぼすものがどこにもないということが、不安の対象を性格づける。不安は、おのれがそれに対して不安がるのが何であるのかを「知らない」のである。だが、この「どこにもない」は何ものもないということを意味するのではなく、そのうちには、方域一般が、つまり、本質上空間的な内存在にとっての世界一般の開示性が、ひそんでいるのである。このゆえに脅威をおよぼすものは、ある特定の方向のほうから近さの内部で近づいてくることもあり得ず、それはすでに「現にそこに」あるのだが――しかもどこにもないのである、つまり、脅威をおよぼすものは、胸苦しくさせて、ひとの息をふさぐほどに近くにあるのだが――しかもどこにもないのである。
 不安の対象においては、「それは無であって、どこにもない」ということがあらわになる。世界内部的には無であってどこにもないということ、このことが手向かってくるとは、不安の対象は世界そのものであるということを現象的には意味している。無であってどこにもないということ、このことのうちで表明されているこの完全な無意義性は、世界の不在を意味しているのではなく、次のことを意味している、すなわち、世界内部的な存在者はそのもの自身に即して完全に重要ではないので、世界内部的な存在者のこうした無意義性を根拠にして、世界がその世界性においてひたすらなおも押しつけがましく迫ってくるというのが、それである。 (pp.323-4)


 けれども世界は、存在論的には、世界内存在としての現存在の存在に本質上属している。したがって、無が、言いかえれば世界そのものが、不安の対象として明らかになるなら、このことは、不安がそれに対して不安がる対象は世界内存在自身であるということにほかならない。 不安がることは、根源的に、また直接的に、世界を世界として開示する。 (略)
 不安は、最も固有な存在しうることへとかかわる存在を、言いかえれば、おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であることを、現存在においてあらわにする。不安は、現存在が何かに向かって自由であることに、つまり、現存在がつねにすでにそれである可能性としての現存在の存在の本来性に、現存在を直面させる。 (pp.324-5)


 不安がそのために不安がる理由は、不安がそれに対して不安がる対象、すなわち、世界内存在として露呈する。不安の対象と不安の理由とのこの自同性は、それどころか不安がること自身にすら及んでいる。なぜなら、不安がることは情状性として世界内存在の一つの根本様式であるからである。開示するはたらきと開示されたものとの実存論的な自同性、しかも、開示されたものにおいて世界が世界として開示されており、内存在が単独化され、純粋な「被投された存在しうること」として開示されているというふうな実存論的自同性は、不安という現象でもって一つの際立った情状性が学的解釈の主題になっていることを、判然とさせる。不安は、このように現存在を「単独ノ自己」として単独化し開示するのである。だが、こうした実存論的「独我論」は、孤立化された主観事物なるものを、無世界的に出来(しゅったい)することの無邪気な空虚のうちへと置き移すどころか、現存在をまさしく極限的な意味において世界としてのおのれの世界に当面させ、かくして現存在自身を世界内存在としてのおのれ自身に直面させるのである。 (p.326)


 不安は、現存在をその最も固有な被投存在に当面させて、日常的に親しんでいる世界内存在の不気味さを露呈させる。 (略) 不安の対象は、ある特定の気遣われるものとして出会われるのではないのであって、おびやかしは、道具的存在者や事物的存在者からやってくるのではなく、むしろ、すべての道具的存在者や事物的存在者はひとに絶対にもはや何ごとをも「言う」ことがないということ、まさにこのことからやってくる。環境世界的存在者でもって得られるいかなる適所性ももはやないのである。私がそのうちで実存している世界は、無意義性へと沈みこんでしまっており、このようにして開示された世界は、存在者を無適所性という性格において解放することができるだけなのである。不安が直面してそれを不安がる世界の無とは、不安のうちではたとえば世界内部的な事物存在者の不在が経験されているということを言っているのではない。世界内部的な事物存在者はまさしく出会われざるを得ないのだが、それは、世界内部的な存在者でもっては、このように全然いかなる適所性も得られないというふうにであり、また世界内部的な存在者が空虚な無情さにおいておのれを示しうるというふうになのである。(p.538)




*1:引用は『世界の名著 74 ハイデガー (中公バックス)』から行なった(強調は全て引用者)。 ごく一部、理解しやすいように訳語を改変した。

*2:Die Grundbefindlichkeit der Angst als eine ausgezeichnete Erschlossenheit des Daseins

*3:Die Zeitlichkeit der Befindlichkeit