呼吸の努力
ドゥルーズ 『批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)』pp.16-7 より:(強調は引用者):
人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態である。病とはプロセスではなく、プロセスの停止なのだ――たとえば「症例ニーチェ」におけるように。それゆえ、そのような存在としての作家は病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者である。世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病いが人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない。 (略) そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見てとり聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊しきらせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである。自分が見聴きしたことから、作家は目を赤く充血させ鼓膜に孔をあけて帰ってくる。いったいどんな健康があれば生を解放するに充分なのだろうか――人間によってかつ人間の内部に、つまり、器官組織と類によってかつそれらの内部に生が監禁されているあらゆる場所でそうするには?
こういう意味での作家的な人間があらゆるジャンルで*1増えてくれないと、息ができない。
誰かの自己治癒の努力は、《現状の帝国》を破壊するものに見える*2。
ここでいう作家的なものは、偶発的な個人の出現を待つほかないだろうか。――過剰に神秘化したり被害者意識に居直ったりするのではなく、制度的契機を用意しておくことはできないか。