巻き込まれた制作過程

    • ひきこもることは、不潔恐怖や洗浄強迫で風呂に入れなくなることに似る(参照)。 「正しさ」への嗜癖的固着が、身動きをとれなくする。
    • 同様に社会参加は、「自転車に乗ること」に喩えられる。 意識することが少ないほど、うまく乗れる。

ここでの 《洗う》 《乗る》 は、社会化にあたる*1。 この比喩で私たちは、政治的な含意に直面する。 問われるのは作業過程であって、結果物だけではない*2


制作者として馬鹿げている(幼稚でくだらない)ことが、臨床上のまずさと重なる。


オリジナリティだけが求められるわけではない。 生活者としては、陳腐なルーチンの維持は避けらない*3。 と同時に、「ルーチンを反復する以外ない」という思い込みが、ルーチンを破綻・停止させる*4


観客席にいる(と思い込んでいる)者は、相手の結果物だけを見る。


しつこいようだが、制作過程それ自体のスタイルが問われている。 「法的・政治的な正しさを求める態度」それ自体が、制作過程としてのスタイルを(ある思想的前提にもとづいて)固定されている。 結果物・解釈の「なんでもあり」以前に、制作スタイルをこそ研究しなければ*5


法的判決を固有の創造性との関係で考えることは*6、むしろ私たちの意識じたいを、恒常的な法廷として問い直す。 そのつもりがなくとも、私たちはすでに一定の法廷を生きている(それは同時に、一定の精神病理学を潜ませている)。


批評が結果物しか見ないのは、「批評家とは観客席にいればよい」という思い込みによる(参照)。 観客席での「作品マダ〜?(☆チンチン)」は、おのれが制作過程を委縮させる環境要因であることに気づかない。 これと同じことを精神科医がやる。 「きみ、はやく自分を正常物として出しなさい」 「きみが “患者さん” であるかぎり、君を特別扱いしてあげる」――役割でミッションが固定されるため、作業過程が役割のナルシシズムに閉じる。 「君はアーティストなんだから、私を欲望させるものを作らなければいけないんだよ」


結果物に強いられる関係作法の幼児性が、制作過程のスタイルを決めてしまう*7。 “観客席”で、ナルシシズムを満たしてもらうことしか考えない人たち。 そういう本人の制作過程には、メタ言説への閉じこもりしかない。――ひきこもる者とメタ理論信仰の医師や学者は、同じ制作態度をしている。

    • ここでも斎藤環氏は、「変われば変わるほど変わらない」という居直りをしている*8。 斎藤氏は、精神科医がオタク趣味を持っている」というより、オタク的作法で精神医療をしている。 《医師/患者》関係はコスプレであり、医学的知見はウンチク自慢であり、そこに患者が巻き込まれている。 「医師免許があるから許される」のではない。免許を口実にした許しがたい居直りがあり、周囲も「この人は免許があるから」と口を挟めずにいる。 ▼主観性の臨床と結びついた関係性の臨床については、免許があろうが無かろうが全員がすでに巻き込まれている。全員がおのれで取り組み直すしかない。そういう場所で、既存のルーチンに固着した人が抵抗する。――ここで「ひきこもり問題」は、医師に対してだけでなく、ひきこもる本人に対しても法的・政治的要因を帯びる*9



いわゆる社会主義は、「完成物がどういう関係性を持つべきか」を計画し、労働過程まで洗脳支配しようとする。――政治経済の議論が、美術批評や精神病理学に重なる。


監視社会がどうこうというより前に、私たちの至近距離の関係性は、すでにお互いを法廷として生きられている。



*1:うまく洗えること、うまく「乗れる」ことが社会性にあたるとされる。

*2:「きれいな姿」「うまくいった姿」だけを誇示して意識させることは、決して処方箋にならない(かえって自意識の構図を強化する)。

*3:オリジナリティだけを求めることは、それ自体が幼稚なルーチンだ。 難しげな思想談義だけの人たちは、言い訳のルーチンが身に染みついている。批評が機能していない。

*4:結果物の関係作法に支配される、作業過程への臨床が問題になっている。

*5:それは単に美的なモチーフではない。制作スタイルそれじたいが、法的・政治的な決定事項なのだ。

*6:「judgment has an inherent, and not an accidental or willful, creativity」 「creativity as a necessary feature of judgment」 Alexandre Lefebvre 『The Image of Law 〜Deleuze, Bergson, Spinoza紹介サイト(参照)より】

*7:「こんな制作過程を生きてしまったら、もうあの人たちの期待には応えられない」

*8:実際に変化が難しいという問題と、「変わることはあり得ない」とイデオロギー的に決めつけてしまうのは、まったく別のことだ。 「変わることはあり得ない」としてしまえば、生産態勢は現状に固定される。 「これ以外はあり得ない」と思い込まされる。――私は自己治癒の努力において、生産態勢を変え続けている。その努力のなかで元気になっているし、処方箋を模索するのは、生産態勢を変えようとすることに等しくもある。(集団的な問題でもあるから、一人だけで何もかも変えることはできない。)

*9:本エントリーのタイトル「巻き込まれた制作過程」は、マルクスの「資本のもとでの労働過程」を参照している。 とはいえ「ポスト・フォーディズム」論は、制作過程と関係性をめぐる精神病理学や意思決定論を内に含まないと、搾取糾弾のイデオロギーを反復して終わる(それ自体が、全体主義的生産態勢の押し付けで終わってしまう)。