「手に負えないことをやる」

「社会は殺すか殺されるか」と考えれば、ひきこもる家で殺意が起こるのは、むしろ常態がもたらされたと言える。 必要なのは、その主観性の生産のあり方に従ってルールと臨床指針*1を仕切り直すこと。 すでにあるものだけでは無理。 別の必要がもたらされている。

    • そういう形で仕切り直しが要求されること、それに応え続けることが生の持続であり(参照)、態勢を固定して流動性に耐えるのは指針にならない。 なのに知識人も臨床家も、固定メニューの提案ばかりやっている。 メタな《正当化=アリバイ》はどのみち抑圧なのに。 固定メニューへの嗜癖は、虚無への処方箋にならない。



医学や社会学の優等生ごっこでは、必要なことを考えられない*2。 必要な思考は、法と法外の境界で分析プロセスとして生きるしかない*3。 最初から定められたプログラムに従って「事業の歯車になる」ことでは、社会参加の継続それ自体を考察できない。 順応主義者は、おのれが何を継続しているかに気づいていない。


つながり方を固定し、既存ディシプリンでしか考えない者は、どんなに無頼を気取っていても幼稚な居直りでしかない*4。 マイノリティ擁護を標榜すれば正義だと思い込む横暴が、ていねいな分節を踏みつぶす。 場面は反復されるが、自分がいなくてもいい疎外された演劇(特異的な分節生成はない)*5


愛、他者、主観性の生産、「誰が異常なのか」、「順応の運営とは何か」、政策や環境設計――ひきこもりでこそ、現代思想の核心テーマが問われている。 ここで “臨床的な” 指針策定ができないなら、難しいことを考えていてもインテリごっこでしかない*6。 「僕、知識人の名前を知ってるし、いっぱい勉強したんだもん」*7。 業界や年長世代の覚えがめでたいことは、苦痛実態への取り組みを保証しない。


完全主義ではなく、不完全なことを仕切り直しながらひたすら続ける。 「手に負えないことをやる」*8。 生きることはひたすら手に負えないので、《続ける》ということを仕切り直し続けるしかない。



*1:ベタな医療目線は、むしろ反臨床的と言える。 コスプレ的「お医者さんごっこ」ではなく、つながりと主観を同時にあつかう臨床を考えるべき。 身体の物質医学は一要因でしかない。

*2:批評であっても、メタ談義に生産態勢が固定されてしまっては無理。 その己れの《生産態勢の固定》そのものを話題にできなければ。 みずからの主観性の生産を関与ファクターとしてチェックできないなら、臨床は語れない(虚無感への処方箋として嗜癖しかないから、自分もどんどん追い詰められる)。 メタ談義への嗜癖的居直りはまずい、そのことが気づかれていない。 「精神病理学をやっているからそれでいい」のではない。

*3:その分析生成が生きられるために、場所の分裂度が要る(参照)。

*4:「正しい大地に立っている」という軽々しい主張が場所を硬直させ、分析生成を封殺する。

*5:死ぬ直前の三島由紀夫が、19世紀からの小説作法に「飽き飽きしてる」と語っていたこと。 物語は続くが、本質的な意味では何も起こらない。

*6:現実への直面ではなく、現実逃避としての思想。 むしろ思想は、(ポストモダンまで含めて、)直面すべき現実が無視されることへの異議申し立て。 がむしゃらに直面することは粗暴な黙殺なので、主観性の方針が問われている。

*7:ひきこもる本人がこういう思考のルーチンから抜け出せない。 正当化の生産態勢が固定し、ナルシスティックに自他を縛りつけている。

*8:スラムダンク』『バガボンド』の井上雄彦氏が、仕事の流儀について語った言葉(参照)。 「自分がコントロールしてどうこうっていうふうに描いた途端に、こざかしいものになるのは目に見えてる」 「漫画家であり続けるために漫画を描くみたいなことは全くやる気はない」。