社会参加の批評に、単なるメタはあり得ない

Togetter美術批評家が、なぜ村上隆については「口を噤んでしまう」のか?」、
水野亮(みずの・りょう)氏の tweet より*1

 俺は村上隆のやっていることは煎じ詰めれば「デュシャンの便器」と変わらないと思っている。つまりマガイモノ(便器)を本物(芸術)に見せかけることで「芸術」自体の成り立ちの「マガイモノさ」を露わにするという構造批評を内在化させたメタ的な作品なのだ。 (略)
 村上隆がことあるごとに(今回のBTの表紙を見れば分かるように)「芸術」を連呼し強調するのは、それがホントは「芸術」でないからである。でもそのことによって「本当の芸術」も実は「マガイモノ(便器)」であるということが露わになるその構造が、おそらく批評を困難にさせるのだろう。
 だから村上隆の作品に対して「正面から向き合い」美学的な観点から難癖をつけてみても、それは「便器」に対してアレコレ言ってるのと同じで、傍から見るとマヌケでしかない。つまり村上隆の作品を「芸術」として扱った瞬間から、既に評者は村上の手中にいるのである。 (略)
 かと言って「便器」であることを指摘し「芸術じゃない!」と批判することも不可能だ。なぜならそれは「芸術」そのものを否定することにも繋がるから。「王様は裸だ!」と叫んだ瞬間、実はみんな裸だと気付くような、村上の作品は(あるいは「現代アート」は)そーゆー構造になっている。 (略)
 作品や所論について少々論難されても、「成功」を主張すれば簡単に論破できる。「詐称」は成功していれば、その手段の矛盾や不備など何の問題にもならないのだ。


    • ひきこもりを考えるうちに、専門家じしんが裸であることに気づかされる。 偉そうに論じるおのれは、どういう社会参加をしているのか。
    • 商品であれば、「だって、売れましたから」で終わる*2。 商品は、成功した地点でみずからを誇示する以外の正当化を知らない。本当の処方箋は労働過程や関係性・流通過程にあるが、「売れた」という輝きのもとにすべてが隠蔽される。さまざまな環境要因*3を無視して「売れる」しか目指せないゆえに、本当の問題構造が放置される。 ▼左翼では逆に、「マーケットを否定すること」で党派的正当性が固定されてしまう。そうすると、「売れる」を目指して制作や流通を工夫する人より、もっと固定されてしまう。
    • 社会参加については、複合的な批評的理解(ハッキング)を要求される。
    • 直接的な「働いてるかどうか」より、「党派的抱き込みかどうか」を見分けなければならない*4。 たとえば、誰かが引きこもるためには党派的籠絡が要るから、それを単に肯定することはできない。また「働くこと」は、党派的利害に巻き込まれることでしかない(会社など)。――名詞化された「ひきこもり」だけを問題化することで、動詞形であらゆる場所で生きられる「ひきこもり的あり方」が放置される(それが結果として状態像としての引きこもりを深刻化させる)。 労働過程は、つねに党派的に監禁されている(だから内部告発は禁止される)。 そのことを広く主題にするのでなければ、ひきこもりを原理的に論じたことにならない。
    • 批評をあきらめることが、雇用の条件になっている。



Togetter村上隆の芸術実践論 〜第四夜「未来編」」より(注でのつぶやきは上山):

  • 日本の社会の中で才能のある人間は血管の様に社会に出て行く道筋があるが、ことアーティストに限ってはその道が閉ざされている*5
  • 漫画やイラストにはマーケットがあるから自由ではない*6
  • 美大の自由信仰の問題→禅問答的・私小説的なものになっていく。*7
  • 「ギャラリーをどこに選ぶかで未来があらかた決まる。始めは金持ちor老舗画廊に行っては駄目。若くて元気なギャラリーに行くこと。若手アーティストが真剣に品定めしていくこと。」*8
  • 作家になっていくには?「個人密着は必須なので徒弟や学校。才能なり個性なりを引き出してくれる編集者的な見方の出来る人(師匠や先生)にマンツーマンで指導して請うしかない」*9
  • 「美術で食べるためには、『ネットワーキング⇔文脈の解説⇔理解者の創造』がある。日本では文脈の説明はよくなされるが、理解者の創造は悪いことだと思われている節がある。しかし、そこが成功への分水嶺。」*10
  • 日本独自の芸術という定義なら、日本画とはマンガなんじゃねーの? マンガの古典こそ現代の日本画じゃねーの?*11




《社会参加のプロになる》には。  マーケットの現状を知り、傾向と対策?



「アーティスト」「ひきこもり」と名詞化されることで、承認枠を得る。しかし自意識をもてあそんでるだけ。
自意識をこじらせる名詞化それ自体が、問題構造を悪化させるマッチポンプ*12


精神医学との関係で診断されることは、批評と作家の関係に重なる。
美術に首を突っ込んでいなくとも、精神科医は美術批評家と同じきわどさに立たされる。科学的根拠などないところで(参照)、「この人の言動をどう評価すればいいのか?」。 DSMは批評家のマニュアルだ。 「この診断名があると、社会保障を受けやすいですよ」


「ひきこもり」と名詞化するのではなく、動詞形の実態を(みずからが動詞形であることを自覚しつつ)論じなければならない。


論じる側は、みずからが「社会参加のプロ」を自任しながら、社会化の作法を実際に生きている。ここで作家と批評家は、どちらがメタでどちらがオブジェクトと固定できない。批評家はおのれを「批評家」と名乗ることもふくめ、作家的きわどさを実際に生きる。ところが精神科医は、医師免許で国家に認定されてしまう。――医師免許が保証する物質臓器の知識は、批評家である能力とイコールではない。「やらなければいけない仕事」にとって、臓器の修復は部分でしかない。
免許がなくとも、ひとは関係臨床に毎日直面させられる。


意識や環境の再帰性に苦しむ個人では、まちがった批評意識が苦痛に内在化されている。
そして《患者=作家》が、自称「批評家」*13に振り回される。
⇒ “患者” こそが、誰よりも批評的戦略を必要としている。



*1:参照リンクや強調は引用者による

*2:「売れ」さえすれば、それまでのすべてを正当化し、検証を拒絶する。 ▼商品の本質は、「詐称=アリバイの成功」にある。 ルーチン化した製造過程は、詐称の成功に固定されている。

*3:おのれ自身が《環境》の一部として影響していることに注意。

*4:収入を得る人の一部は、「働いている」というアリバイに成功しているだけで、実は事態の悪化に加担しているかもしれない。

*5:「血管→臓器」の道筋から外れた血液に、腐る以外の道筋はあるか?

*6:「閉じた円環を開放するロジックは、マーケットの論理しかない」という斎藤環氏(参照)と比較。

*7:制度的なものから逸脱した人の自問自答が、「禅問答的・私小説的なもの」になっていく。 ひきこもる人の自問自答は、ここで自傷行為みたいになる。 「考えれば考えるほど悪化する」。

*8:ひきこもる人が、相談相手や支援団体を選ぶことに似ている。選んだ相手や団体に、党派的に取り込まれるかもしれない恐怖がある。

*9:社会参加にあたっては、批評家や編集者としての能力をもった支援者が要る。これは非常に長期的で大規模な育成課題と言える。「批評家や編集者としての能力をもった支援者」が育っていない。閉鎖的共同体の陣取り合戦になっていないか?

*10:社会参加には、「持続的な環境創造」という面がある。批評的に理解してくれる相手がいなければ、社会参加は難しい。そして基本的には、隷属以外のあり方は許されない。どんなに馬鹿げていても、ルーチンには「生活」の脅迫がある。

*11:hikikomori は日本特有の症候」で終わらせるのではなく、《処方箋》でこそ勝負しなければならない。 Hikikomori への《居直り》ではなく、それへの《取り組み方》にこそ普遍がある。 (消費主義とメタ言説は資本制と共にある)

*12:拙著のタイトルは、罪を犯している。

*13:医師、学者、支援者、「ひきこもり当事者」、ほか