永遠と変化 (3)

ゴッホ 「古靴」

一連のイベントに参加しての、個人的なメモです。

動かすこと――党派性と非日常

  • 「19世紀に永遠が崩壊した」といっても、現代では「終わらない日常」が永遠化し、私たちを窒息させている。 ハイデガーが、ゴッホの描いた農夫の靴に「永遠という非日常」を見つけたとしても、その発見の反復自体が制度として硬直する。 ▼「永遠と化した日常」への、非日常*1の導入のしかたが思想を分け、そこに《党派=中間集団》が生じる。
  • システムや規範は、正当性の根拠をもたない(フーコー)。 党派が成り立つ根拠も、突き詰めれば何もない。 しかし「現にこのようになっている」という制度はある(それはとりわけ、水面下で生きられるバトルにむき出しになっている)。 その制度を言語化する過程がないと*2、現に機能している「新しさ=非日常」の導入スタイルじしんが抑圧装置になる。 ▼「固定された構造で反復される非日常」は、宗教的なものの定義と言えるのでは。
  • 「権力に芸術は作れない」といっても、反権力の固定された構図を反復したにすぎない。 その指摘自体が、同じ構図を反復する権力になってしまう。――「権力に芸術は作れない」というのは、自分の無能を指摘する表現になってしまう。 反権力(という権力)の構図に居直れば、自力の《差異化=分析的な分節》はできない。 自己検証では、「自分も間違っていたのではないか」という最弱の状態が必須になる。 だからこそ、検証の時間が最も強い迫害を受ける。
  • カテゴリーとして静止した「当事者」を守ることで、支援者は自分の権力のアリバイを固定し、メタに居直る。 支援対象は陳腐化し、日常に埋没するが、「正義の味方」は天上界で永遠に若い正義でい続ける。 メタ的ポジションを確保すれば、あとは猥褻な冗談を言ってネタの鮮度を楽しみ*3、「横断性」をリピートすれば済むわけだ。(Political Correctness に居直る人は、仲間内意識を共有できるネタ談義が大好きだ。ここにはあからさまな「共同体の儀式」がある。猥談やネタ談義は、共同体の儀式になっている。)
  • 「当事者」としての鮮度*4ではなく、内発的な分節過程によってそのつど生き直される鮮度が必要だ*5。 いわば、結果物としての「新しさ」ではなく、プロセスとして生きられる「新し。 これは「当事者」に対する「当事者にあたる。 結果物としての「当事者」は時間とともに古くなるが、「当事者化」では、硬直した状態にどうやって鮮度をもたらすか(動きを起こすか)だけが問題になっている。 また、永遠の鮮度を維持できるメタポジションがない。
  • 「制度に根拠はない」ことに気付いたところまでが、80年代日本の「現代思想ブーム」だった。 だから相対主義(にみえるメタ談義)*6である社会学に簡単にやられてしまう*7社会学は、80年代が生み出した過剰に相対的な自意識*8への癒しであり、それ自体が、日常的な意識に非日常を導入する党派意識の装置になっている。 ▼「仲良くしなければならない」、つまり党派意識への縛りが自意識になる。 むしろ、自意識は朴訥な党派意識として生きられる。 仲良くしなくてよい、相手の発言を素材化して検討すればよい状況では声がよく出、自意識にならない。
  • クロノス(日常)に対し、アイオン(非日常)の強度に美的にはまり込むだけでは、「自分は逸脱しているんだ」「自分は分かっているんだ」という自意識で終わる。 私が幻滅した現代思想はこれであり、今はそれがロールズ系「正義」言説のナルシシズムに置き換わった。 彼らは、「結果物としての多様性」の肯定でメタな自意識を確保しているため、目の前の関係で自分を検証する必要をもたない。 昨今流通する社会学言説は、「自意識を担保するメタ装置」という意味で80年代ふう現代思想の直系の末裔であって、「別の流れ」ではない。
  • ニート・ひきこもり支援は、クロノス(日常)にどうアイオン(非日常)が繰り込まれるかのプロセスで考える必要があるが*9、それは直接には中間集団論になる。 日常はコミュニティとして形成されるゆえ、非日常の導入は、周囲からは裏切りや異端的政治行動と解釈され得るからだ。 アイオンの時間は、徹底してそれだけにこだわれば、中間集団から排除されてしまう。
  • 必要なのは、「輝いてる!」というような自意識の非日常*10ではなく、労働過程での非日常だ。 日常(制度化された内部)へのアレルギーをもつ者は、心身症的な差異化を余儀なくされている。 結果物*11への嗜癖は、いわば日常への神秘的居直りであり、再検証を拒絶する*12。 私は、みずからの党派性のあり方を問い直さない「つながり」が耐えられない。 既存のひきこもり・ニート臨床論は、《中間集団=党派性》の問題をまったく論じられていない。




*1:クロノス(時計の時間)に対する、アイオン(タガの外れた時間)

*2:非日常の制度は、硬直してすでに日常の風景になっている。 「量子力学は異様だ」と語ること自体がすでに日常化している。 新しさのモード自体が陳腐化している。

*3:ネタの鮮度が非日常の強度

*4:当事者の賞味期限」、「現役でひきこもっていたのはもう10年前です」云々。 ここでは、「利用対象としての新しさ」が問われている。 運動イデオロギーは、平気で人を使い捨てにする。

*5:素材化=当事者化」、「器官なき身体」、「抽象機械」などで論じられていること。 人間がこの世にもたらすことのできる鮮度とは…

*6:という固定された非日常の導入

*7:今回参加したいずれのイベントでも、社会学や最近の思想動向についての言及はなかった。

*8:結果物の多様さに嗜癖する「自意識のモード」で均一化されている

*9:宇野邦一氏は授業で「アルトーのプロセス」を語っていたが、今の私はここで理解している。 とはいえ、「アルトーは病気だったから出来た」だけでは、話が続けられない。

*10:宮台真司は全てこれ

*11:商品や自意識

*12:左翼党派は、それ自体として日常化=内部化している。