各方面でごまかされている当事者性

もとのアニメは見ていないが、強く触発された。


当事者性とは、伝わらないものを抱えること。
受け入れられたいという願望を満たすために自分で格闘しなければならない、そういう状況に追い込まれること。
そして、《責めあり》の存在であること*1


たいていのキャラクター論や物語構造の分析は、論じ手じしんの当事者性を回避する装置になる。
そもそも思考は、ある仕方で批判可能性を引き受けつつ、それとは別の階層の批判可能性を封じる*2


お約束――≪この話をしているかぎり、論じ手は自分の関係性それ自体について当事者的自己解体を迫られることはない(分析それ自体のレベルで面白くないと責められることはあっても、思索事業の前提は批判されない)≫


当事者とは、倫理性を帯びることなのに、
現状の当事者概念は*3、倫理性を免除する装置でしかない。
周囲は《当事者》を絶対化しておけば、倫理的であるとされる――この硬直が事態を悪化させている。


ひきこもり状態の継続には、当事者性の回避という面が間違いなくある*4。 周囲は、「固着した当事者性」を強制される。 ひきこもりを問題にするなら、単なる肯定や否定ではなく、「あらためてどう当事者化するのか」が問われねばならない。ところがそれをやってしまうと、関係者も自分を問い直さざるを得なくなる。
自分の業務を再編するつもりがないのに引きこもりに関わろうとすれば、むしろ当事者性回避のご都合主義がさまざまに組織されることになる――ひきこもる本人を含め。



「哲学なら、俗世と無縁」とは言えない。

大学の哲学科は社会事業として居場所をもらい、精神科医と対談本を出したりしている*5。 ここで哲学の権威と医療の権威はメタ性を補強しあい、関係者の言説編成に影響する。 皺寄せをくらう学生や患者サイドはどうすればよいか。
自分の言説がどんな権力を補強しているかを見ないなら、研究対象としてドゥルーズフーコーを口にしたって何の意味もない*6。 研究すべきは、何よりまず自分が生きる権力事情であるはず。
権力は、当事者性回避の回路でありつつ、硬直した過剰な責任を負わされることにもなる。



メディアは、当事者性を引き受けるツールでなければ

私がこのブログを書くことが、当事者性回避の口実になっていないか。
twitter にせよ何にせよ。



最難関の課題としての「当事者性の再編」

当事者性の再編は、革命の定義とすらいえる*7
「くつがえして固定する」のでなく、再編そのものを恒常化するとしたら。
それを手続きとして、日常に根づかせられないか――それが出来ないなら、制度を論じることがかえって当事者性の回避になってしまう。議論制度そのものの嗜癖的固着。



*1:何がどう責めありなのか、それこそが問われる。 問題が「とにかくカネを稼げ」に集約されるとき、責任は金銭に還元される(責任が金銭以外の形で問われている)。 本来的な《問い直し=当事者化》は、ふつう忘却されている。

*2:宗教や左右のイデオロギーも同じこと。制度順応のメタ的要請を果たす限り、自分の正当性を細かく問われない。

*3:医療・福祉・マスコミだけでなく、自助グループ系でも踏襲される。 「当事者さんだから大目に見てあげなければならない」は、「けっきょく一人前には見てやらない」の裏返し。

*4:本人にとっては、主観性の支えられなさによる「やむにやまれぬ当事者性の引き受け直し」という要因がある。与えられた超自我を、必死で組み替えること。

*5:ex.『生命と現実 木村敏との対話

*6:というより、ドゥルーズフーコーはその程度の話しかしていなかったということか。

*7:スタティックな当事者ポジションは官僚的だ。