焦点をまちがった論争

ドゥルーズフーコーについて語っている箇所より(強調はすべて引用者)

 今度の本ではフーコーの思考の総体をさぐっています。 「総体」とは、ある水準から別の水準に移るようしむけるものという意味ですが、たとえば《知》の背後に《権力》を見出すようフーコーにはたらきかけるものは何か、権力の支配がおよばないところに「主体化の様態」を見出すようはたらきかけるものは何か*1、といった問いにその総体があらわれているのです。 思考の論理とは、その思考が経験する危機の総体のことであり、これには均衡状態に近いおだやかなシステムよりも、むしろ火山脈に通じるところがある。 (『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p.170-171)

 そんな複合的形態が、どうして「人間」でありつづけることができるでしょうか。 どうして人権を語りつづけることができるでしょうか。 (・・・・) こうした形態の変化を表面化させるのは、法権利の変容にほかならない*2フーコーは人間の死という問題を刷新することによって、ニーチェと同じ路線に足を踏みいれたのです。 従来の「人間」が生を封じこめる手段だったとしたら、生が人間のなかで解放されるようにするには、どうしても別の形態が必要になるのではないか。 (・・・・)
 フーコーが「主体化」という最後の主題にたどりついたとき、主体化の内実は、ニーチェがいうように、主として生の新たな可能性をつくりだすところに、そして真正な生の様式をつくりあげるところに求められる。 (同書p.184-5)



「自分の探求を総括する主題は権力ではなく主体だ、人間存在が主体化する様態だ」というフーコーの発言が引用されたあとで:

 フーコーは人称の意味で「主体」という言葉を使わないし、同一性の形態という意味で「主体」を語っているわけでもない。 実際にフーコーが使っている言葉はプロセスとしての「主体化」であり、関係としての「自己」(つまり自己との関係)なのです。 (同書p.187-8)

ここで「プロセスとしての主体化」を美的耽溺と捉えてしまうと、わけが分からなくなる。
このあとでは「生存を主体のかたちで考えるのではなく、芸術作品としてとらえる」と語られているので、ますます「自分じしんへの美的耽溺」というナルシシズムで捉えがちだが、むしろ内的必然に従った当事者的分節の強度に満ちた生成の話をしていると捉えなければ、参照価値がない*3

 生存の様態を考えださなければならない。 そして生存の様態をつくる際に準拠すべき任意の規則が、たとえ知がそこに入り込み、権力がそれを奪いとろうとしても、やはり権力に抵抗し、知を回避できるものであるようにしなければならないのです。 (同書p.188)

これを単に「オタクになればよい」としてしまうと、本当にわけがわからない。



先日の「クールジャパン」シンポでは、「主体化の新しいあり方」としてオタクが取り上げられていたが*4、臨床的見地から行なうべき斎藤環への反論も、ガタリ的な「制度分析」「schizo-analyse」を取り上げる必要も、焦点はここにある。


オタク化を単に肯定することは、どこまで行っても《嗜癖化=耽溺》の推奨でしかない。 80年代のニューアカとの関係*5では、常に「ハイカルチャー vs ローカルチャー」が問題となるが、本当の焦点はそこではない。
主体化のプロセスが単に嗜癖的耽溺なのか、それとも分析プロセスが嗜癖的癒着との距離を許されているのか――致命的な違いはそっちだ。 いくらハイカルチャーを論じても、分析過程が嗜癖的耽溺でしかないならどうしようもないし、アニメを論じていても、おのれの主体生産*6を主題化できるようであれば卑下の必要も、その裏返しとしての過剰な肯定も必要ない*7


オタク的耽溺を肯定して見せるだけというのは、かつての左翼が自分の貧乏を自慢していたのを、今度は主体プロセスそのものの場面で反復しただけで、「オタクであること」がベタなアリバイになっている。 動物化うんぬんのメタ言説で自分の “当事者的” 嗜癖にアリバイを与え、メタ言説とオブジェクト・レベルの双方が居直っただけだ。


当事者責任を一切問われないメタ言説と、分析を拒否して嗜癖に居直る “当事者” と。 いずれも解体的に問い直されることがない。 otaku」「hikikomori」で日本的嗜癖を対象化しても、それは「自分を考えた」ことにならない*8



*1:フーコーの主張については、「本人が実存的であると思っても、それは与えられた構造を反復することでしかない」といった解説をよく見かけるが(大意)、ここでドゥルーズは違う話をしている。

*2:新しく創出された「生存の様態」が、どのような法権利の変容を迫るかについては、まったくこれからの課題。

*3:ドゥルーズの発言を受け、「意味か強度か」とよく問われるが、その場合の《強度》は、殆どすべてが嗜癖的耽溺のことでしかない(「感染」を呼びかける宮台真司が典型的)。 本当に追求すべき強度は、分析生成そのもののプロセスとしての強度のことだろう。 ここでこそ、フーコー的な「生存の様態」モチーフが生きる。

*4:シュテフィ・リヒター氏の発言

*5:固有名詞でいえば 「浅田彰 vs 東浩紀

*6:それと切っても切れない、みずからの社会的合流のあり方

*7:日常生活に要求される分析の必要を淡々と生きることと変わらない。

*8:オタクの世界展開も、嗜癖そのものの伝播や相互作用ではなく、「分析同士の出会い」が起きるのでないと、どうしようもない。