社会性は、政治の体質が決める

  • 知識人や支援者の多くは、形式的な「べき論」と事業ナルシシズムで自我を維持している*1。 べき論とは別の当事者的分析を要求すると、怖がられる。 あるいは「当事者発言」を、上野千鶴子的な「自分を特権化するナルシシズム」の文脈でしかご理解いただけない。 私が要求しているのは、「自分の関係性を素材化してください」なのだが、これが「脅しだ」と言われる。 それを脅しと取るということは、暗黙の脅しが常態化しているということだ。 「みんなが従っている脅し」に従わず、再検証を要求すると「脅しだ」という*2
  • 弱者擁護のスローガンで自我とコミュニティを維持する集団は、自分たちじしんの差別や暴力を直視しない。 権力や意思決定の実態を、金輪際 分析しない*3。 そしてそれを言うだけでは、私自身がルサンチマンで終わる。 既成の権益パターン*4の勝ち。
  • 必死の努力が、その内的メカニズムで自滅している*5。 それゆえ、努力そのものがプロセスとして反復してしまうスタイルと、それへの社会的処理(秩序化の方針としての思想)が問われている。 関係への参加が、どういうロジックで維持されるか。 同じパターンを反復せずにいられない人たち。 「○○当事者だからチヤホヤされる」ことが、差別の裏返しだと気づかない人たち。
  • 被差別民に対する過剰な賞賛と過剰な排除は、同じ差別の裏表だ。 それは、「差別される側」自身にも生じている。 既得権益の確保以外に何も考えない人たち。
  • 周囲がウソをつく人間ばかりのとき、自分だけバカ正直になろうとすれば潰される。どうするか。――これは、支援にとって核心の問いだ。 これを「どうでもいい」と言う人の支援論は、きれいごとでしかない。(お互いの理想像を褒め合って、優等生になれば社会参加できると思っている。)
  • かつて耐え難かった社会は、ひきこもった後にはもっとひどい地獄になっている。 「ひきこもった奴」と差別されるから。 支援団体に行ったって、そこにも《社会》が、つまり嫌がらせと差別がある。 今ある作法に順応するのではなく、社会参加のロジックそのものを変えなければならない。 ところがその活動自身は、まずは「社会性のなさ(反社会性)」として処理される。 これはもはや、《闘争》というフレームで処理するしかない*6。 あいも変わらず《ふれあい》をやりたがる関係者たち。 このままでは、水面下の陰湿さを変えられない。――私が必要とし、自分でやらざるを得ない支援事業は、政治の体質、すなわち《社会性のあり方》そのものを変えることだ。




*1:「べき論」と事業スタイルが、満たすべき《社会性》の基本パターンを作っている。

*2:逆にいうと、私が消される可能性が高い。

*3:ひきこもる人も同じ。 権力の分析論は、そのまま《自我が構成される時のパターン》の話であり、臨床論にもなっている。これがどうしても伝わらない。――フーコードゥルーズ/ガタリを読んでいる先生方は、どうしてこの話をなさらないのか。 《権力を批判する》というとき、ご自分が権力の当事者であることを忘れ、「分析をメタにやってればいい」と思っているのではないか。 支援対象者も、自分が権力をふるう側の当事者であることを忘れている(見たがらない)。

*4:「誰かの既得権」というより(権益そのものは必ず誰かに生じる)、その既得権の制度パターンが問題なのだ。 同じパターンで椅子取りゲームを続けるのか。 しかし状況を変えるには、まず椅子を取らなければ無理か。

*5:私が《取り組み主体の構成プロセス》をしつこく主題化せねばならない(それを忘れることはできない)のは、このためです。 そしてこれは、社会的・経済的要因を無視することではありません。 むしろ、「社会的要因」だけに注目することで、《努力そのものが構成されるプロセス》という決定的要因が無視されてしまいます。 ひきこもりの《全面肯定vs自己責任》という不毛な対立に、別の取り組み軸を提案しているのです。

*6:ところが闘争は、交渉を通じてしかうまく運ばない。