アリバイ確保のフォーマットと、ライフログ

社会復帰が、本人への社会的承認を作ることだとしたら、「社会復帰の支援」は、既存のフォーマットに乗っかって、本人のアリバイ確保を目指すことです。 しかしそれは、順応主義でしかない。

一定の関係秩序の担い手は、単に自分の領土を広げようとするだけでなく、関係作法そのものの広がりを画策します。 直接「自分の領土」が増えずとも、自分の依拠する関係作法の領土が増えることが、自分の権益になる(別の作法を導入されると、その人の権利主張は不当なものとなってしまう)。


たとえば現状では、役割理論的な固定*1があるため、「ひきこもり経験者による迷惑行為」は、多くが黙認されています*2。 そのため、この状況に問題提起するには、単に「被害がある」と訴えてもダメで、《迷惑行為を黙認させてしまう当事者論》そのものを書き替えなければなりません*3。 ところが、不当な当事者論によってこそ自分の居場所を見出せたと思う人たちは、この役割パターンを死守します。 問題提起への動機づけを持たないばかりでなく、むしろ問題提起が様々な策謀で潰される。 ⇒ 隠蔽や妨害工作に動じない記述手続きがなければ、まともな問題意識はすべて抹殺されます。


私はエスノメソドロジーという手続きに、《犯罪捜査+裁判》のような役割を期待したのだと、今になって気付きます。 つまり、対象者が同意していない録画や録音を行ない、そこに学問的な分析を加えることで、相手の言動秩序を冷酷に指摘できるかどうか。 なぜそういうことが必要かというと、「表向きの主張」と、「水面下で実際に生きられる秩序」が、あまりに違っているからです(孤立した人間は、水面下の秩序に徹底的に支配されます)*4。 同意なき録画や録音は違法行為であり得ますが、相手が同意した無難な会話だけから、無難な秩序しか描き出せないなら、それはやはり不当な形で政治性を忘却していると思います。

言動記録を取るかどうかが各人の権利として制限を受け、そのために水面下のあれやこれやが放置されるというなら、私は《あらゆるライフログアーカイブ化》という、やや SF 的な可能性を想定したくなります。 逆にいうと、全員のライフログが自動的に取得され、手続きさえ踏めばそれにアクセスできる状況になって初めて、《分析されるべき素材》がそろうのではないか*5

それまではむしろ、表向きの顔と裏向きの顔を単に解離させることが、社会順応の作法になる。 関係実態を主題化する私は、関係者のアリバイを揺るがす存在として排除されます*6。 ありていに言うと、「社会復帰してもらっては困る問題意識」になる。 一般にそれは、命の危険にも関わる禁止です(参照)。



*1:役割固定が、反復される関係性のパターンになっている

*2:知的障害者によるスタッフへの暴行が、刑事事件にならないのと同様

*3:役割上の立場から自分では「ひきこもり経験者」を批判しにくい支援者は、《当事者どうしの潰し合い》を放置することで、政治上の目的を達成することがあります。 つまり、何をやっても許される《○○当事者》は、政治の武器として利用できる。――この状況全体を秩序化しているのが、誤った当事者論です。

*4:《メタ/オブジェクト》という論題は、言説の内容面での主張と、それが実際に要求している関係秩序のあり方が、単に一致するものではないことを主題化するものです。 こういう論点設計自体が、ある種の人たちには不穏なのです(メタにかこったアリバイを壊してしまうので)。

*5:《全ライフログアーカイブ化 ⇒ 素材化》という(ひとまず SF 的な)状況が前提になれば、チェリー・ピッキングと一方的な被害者意識の表明は、端的に不当になります(参照)。 逆にいうと、《お互いの関係性を素材化しよう、それをつながりの作法にしよう》という私の提案は、ベタな規範として追求してもあまり現実味がありません。 「隠すほうが得」と考える人たちに実態分析を突きつけるには、絶大な強制力が必要になります。

*6:税金を使った支援事業に首を突っ込む人たちが、ご自分たちの関係実態に言及されることを拒否し、《実態を検証されることへの拒絶》をこそ支援対象者と共有しようとしています。――社会参加の維持が、硬直した抑圧の維持と等しくなる。