秩序化について、「別の提案」が要る

 イアン・ハッキングの謂う「相互作用類」は 現象の特徴を指示するための言葉であり、指示対象が「固定的であるか否か」については何もいっていません。 (略) つまり、在り方がまるで変わらない「相互作用類」もあるでしょうし、どんどん変わっていってしまう「相互作用類」もあるでしょう。 (「論点2について:固定的役割アイデンティティ」)



私が「固定的」と申し上げたのは、そもそも《カテゴリーで名指す》という振る舞いそのものに含まれる問題を指摘するためでした。 固定的であれ流動的であれ、カテゴリーで名指す作法が支配的であることは、それが正しい作法であることを意味しません。


さまざまな場面で悪い役割を果たす当事者論は、人をカテゴリーで処理し、多くの人がそこに居直ります(処理する側もされる側も)。 そのフォーマットそのものを変えるには、相互作用類という概念だけでは足らない。 カテゴリーによる処理*1嗜癖の温床になっているのですから、当事者化の別の作法が必要です。
「当事者性は権力だ」という苦情を、当事者特権を与えられない人たち*2から何度か聞かされています。確かにそう思います。――私は、カテゴリーに居直る当事者性とは別の、《自分の状況を考え直す当事者性》を提案していますが、それは「誰かを当事者役割に監禁する」のとは別の、権力付与の手続きを必要とします。 「がんばって考えれば同意してもらえる」わけではないし、各人が自分の分析を口にするだけでは、お互いに振り回されて収拾がつきません。 (逆にいうと既存の当事者論は、《相手を不当に黙らせる手続き》にもなっています。)

    • ここで私は、やはりマルクスの『資本論』を思い出しました。 商品形態から始まって、私たちの社会がどういうロジックで成り立っているかを《記述する》ことに徹した資本論は、「ではどうするべきか」については何も描いていない。 むしろストイックに、《現状がどうなのか》を描いただけです。 それ以上のことを期待すべきではないし、「今後の方針」は、別に提案するしかない。 そして、私たちがお互いの関係を処理する社会性の方針は、内面や力関係のスタイルでもあるはずです。




*1:内外を分ける差別的カテゴリー、『DSM-IV』の診断名、など

*2:「フツーの人」や、強者カテゴリーに囲われた人たち