2010-10-01から1ヶ月間の記事一覧

呼吸の努力

ドゥルーズ 『批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)』pp.16-7 より:(強調は引用者): 人はみずからの神経症を手立てにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態…

専門性による、核心的論点の排除

ひきこもりについてまともに考えてしまうと、社会的にパージされてしまう。これは、「心身症で社会参加できない」ことと、焦点が違いつつ、無関係ではない。 苦しい状態に内在的に取り組むことが許されていないゆえに*1、「内側から取り組むこと」が排除され…

「まちがっている」ことと、「病んでいる」こと

『Masochism: Coldness and Cruelty & Venus in Furs (Zone Books)』掲載、 ドゥルーズ 「冷たさと残酷さ Coldness and Cruelty」 より(参照): 《(文学的に)批評的であること》 と 《(医療的に)臨床的であること》 は、相互に学び合う新しい関係に入…

本当に独立した悩み方が始められるか否か。

集団的にはまり込んでいる努力や興味のあり方が、苦痛を再生産する枠組みそのものであること。 受けの良いことを目指すだけでは、集団的傾向それ自体の生み出す苦しみを対象化できない*1。 本当に必要な努力モチーフは、まずはほとんど支持を得られない。 「…

DSM-5 ドラフトについて

雑誌『精神科治療学 第25巻08号』 《今月の特集:DSM-5 ドラフトをどう考えるか》*1 公開されている「DSM-5ドラフト」(英語) 各章冒頭の「抄録」が公開されていますが(参照)、一般向けの解説本を何冊も読むより、これ一冊を念入りに調べたほうが何倍も…

本当の問題点を指摘すると、まずはとにかく孤立する*1。 その状況に苛立って、最初の問題意識に固着するとそのまま終わる。 「以前は苦しかった人たち」という語りのポジションは、 これから作ろうとする関係にあるかもしれない問題点や*2、 目の前にある問…

映画学校に通ったわけでもない1983年生まれの男性が、独学で監督・脚本・編集・プロデュースをやり、予算50万円くらいで初めて撮った映画らしいのですが。 「今、僕は」(ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル)*1 以下、宇多丸氏の発言より…

惰性が最適解ではないとして

「くそまじめをすることで信用を作ろう」・・・・くそまじめしか出来ない奴に柔軟な相談はできない。 「最適解がわからない」という意味で、政治が分からない*1。 駄目な政治家しかいないなら、「誰も選ばない」が解になる、しかしそれでは回らない。 けっき…

各ポジションにおける言説事業と、目の前の関係性

現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア作者: 木村 敏,村上 靖彦,宮本 省三,河本 英夫,西村 ユミ,松葉 祥一,熊谷晋一郎,綾屋紗月出版社/メーカー: 青土社発売日: 2010/09/27メディア: ムック購入: 3人 クリック: 19回…

論じる過程自体が肉であること

いちど「ひきこもり」という身分に囲われてしまったら、もう医師や学者とは言説の階層が違ってしまう。逆にいうと、医師や学者という肩書きで語るかぎり、オブジェクト・レベルの関係性は不問にされてしまう(そこに言及するとむしろマナー違反とされる)。 …

主観性と関係性

周囲が信仰者で占められていたら、自分も同じ信仰を持ったふりをしないと参加できない。 ひきこもり問題において、意識と参加のマネジメントが総合的に問われている*1。 すでに参加を持続させている人が、意識と関係性を問い直すこともせず「集団なんて要ら…

正義 と 臨床

『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』 『千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』 副題にある「資本主義と分裂症」という言葉は、 法哲学・政治思想と精神病理学は、同時に考えざるを得ない 正義と臨床は同じ事業 そういう話…

止めること と 動かすこと (メモ)

《正しさ》の多くは、主観的にも集団的にも、静止画像として求められる。 科学であるために満たすべき要請と、臨床過程であるために満たすべき要請は両立できない。 スタティックに焼きつける科学*1は、「動きを止める」努力にあたる。 しかし臨床過程は、む…

お互いが 《引き出し屋=監禁屋》 になるのではなく

斎藤環氏の引きこもり論は、カフカの「掟の門」から引き出そうとするが(参照)、 門をくぐる前の状態を「ひきこもりシステム」としてメタに描いて終わり、 門をくぐった後の《社会性の帝国》については、単に順応するしかない。 門の前についてもあとについ…

政治的正当性は、臨床上の要請だ。 「努力さえすれば、恐怖症とは別の努力ができる」という公正さを実現するには、努力プロセスそのものに照準した臨床モチーフが要る。 臨床に関して、「何を主題化しなければならないか」という合意形成は、政治的説得にあ…

生産力と生産関係の矛盾より、「規範とディテールの矛盾」が常に生じている。

社会生活を持続させる能力は、犯罪を持続させる能力に近い。 「出来心・キレる・利用される」ではダメ。 周到さ・忍耐・自律が要る。 組織的承認のある犯罪には、誰も手をつけたがらない(黙認される)*1。 別の社会性をもって今の社会性に替えることは、現…

「主観性の構成」 と 「中間集団のアレンジ」

「本人のせい」と「社会のせい」の両極しかない。 こんな発想のままあれこれ論じても、問題のメカニズムに加担したままだ。 本当の問題は、主観性と集団のありかたを同時に考えるところにしかない。――つまり問題は、個人だけでも社会だけでもなく、《関係性…

ひきこもりについて、最も重要な論点

「努力すればするほどおかしくなってしまう」という執拗なメカニズムを、内側から扱える議論がない。 専門性をかこつ既存の議論は、主観性の構成という最も重要な論点を扱う能力がない(気づいてすらいない)。 なぜなら彼らには、自らの構成過程を対象化す…

特異的な専門性

社会的ひきこもりに関連して、既存の「専門家」がダメだとすれば、自分で専門性を作らなければ。 医師・支援者・文筆家としてプロを名乗る人たちの議論に納得できないなら、それに反論するあなたは、プロとして力量を問われる用意ができているか。 ただ観客…

ジャンルを創ることと、そのジャンルで成果を出すことは違う。

物理学と、各理論。 野球と、個人成績。 任侠世界と、組作り。 ジャンルがなければ「仕事をした」ことにならないし、共同体づくりもできない。 ひきこもり問題の場合、何をすれば仕事になるのか分からない状態で、「共同体を作らねばならない」という課題だ…

能力偽装

togetter「紀藤正樹&落合洋司 両弁護士が語る「前田恒彦的なるものの罠」」より: 紀藤正樹: 僕は前田的堕落は、一見仕事がテキパキできて有能だが、実際は真実に迫ることの出来ない、ダメな法律家のタイプの問題だと思います。こんなタイプ昔からいたし今…