論じる過程自体が肉であること

いちど「ひきこもり」という身分に囲われてしまったら、もう医師や学者とは言説の階層が違ってしまう。逆にいうと、医師や学者という肩書きで語るかぎり、オブジェクト・レベルの関係性は不問にされてしまう(そこに言及するとむしろマナー違反とされる)。


この状況で引きこもりなど論じられるわけがない。
ひきこもりは、主観的努力と関係性の解離にこそ生じている問題だというのに。
意識のプロセスが最初からメタ言説に身売りしているようでは、問題構造を強化する言説しか作れない。


仮に私が医師や学者の肩書きを得たとして、彼らのような言語しか使えないのであれば*1、それは自分の身分確保をしただけで、ひきこもりを内在的に考察したことにはならない。
「苦しいよ〜!」という感情言語と、自分の関係性を黙殺したメタ言語しかなく、自分が実際に生きている関係性を内側から分節する、それ自体社会的な言語が、労働として承認されていない。むしろそんな動機づけを排除することでのみ社会性が確保される。感情論を口にした方が「当事者らしい」とされるのだ。


ひきこもる人が自分で考えようとすると、いつの間にか「メタ言説でしかない専門家言説」の模倣を始め、これが状態をどんどん悪化させる*2。 身分制と解離した専門家言説は、論じる言説が肉であることを無視する。そして肉を悪化させる*3


この状況全体をシャッフルするために何ができるか。



*1:制度内で仕事をしようとするかぎり、制度内の言葉づかいを知らずにすませることはできない(参照)。

*2:斎藤環氏はこのことを指摘しているにもかかわらず(参照)、ご自分の言説作法がこのメカニズムに加担していることに気づいていない。

*3:ここでいう《肉》は、メルロ=ポンティを参照している。