おりてこない正義

「おりていく生き方」では、自分という結果物が「おりて」いく。
しかし必要なのは、「おりる自分」という傲慢な自意識ではなく、プロセスが降りていること*1。 いわば最下層のディテールを、自分自身をふくめて分節してみせる、プロセスとしての地べた性が必要なのに、メタ正義を確保した人たちは、精神主義的な人生論を語る*2。 「おりていく」と発言している主体は、ずっとメタレベルにある。 メタ・ポジションから、操作対象としての自分をあれこれしている(ずっと自意識談義)。

上野千鶴子にとって、《当事者》カテゴリーはメタ正義を担保する*3。 「女」「障碍者」「ひきこもり」等のカテゴリーで正義を確保したあと、猥談や仲間内談義にうち興じるリンク先の動画や記録参照)。――メタ的正義の、自閉的ナルシシズム。 彼らが「おりてくる」ことはない。(「おりる」とは、確保されかに見えた自分の正義をご破算にして、受傷性をもってその場の関係を素材化することだ。)

大学や病院のパンフレットのように、権威者と弱者が同席し、談笑する。 「統合失調症」というカテゴリーで確保された《当事者》が、「東大教授」という権威性と同席し、お互いのポジションを補強しあう――なんという保守。 既存制度は温存されているのに、“リベラルである” ことのアリバイとして、なれなれしいニックネームで呼び合う(「きよしどん」「ちぃちゃん」)。 これが周囲への威圧でしかないことを告発する声の分節は許されない。 誰も「おりて」こない*4。 ここにあるのは、権威的な領土確保にすぎない。
市野川容孝を含め、アカデミシャンは誰もこの暴力を指摘できていない。 「アカデミシャンだから、当事者や現場を大事にしなければならない」という発想じたいが、アカデミシャンとしての現場性を無視し、メタに居直っている。(現在の知識人言説は、自分を含みこんだ集団を分節するプロセスを、それ自体として確保できていない。正当化努力そのものがメタに監禁されていて、臨床の話を誰もしない*5正義言説と臨床言説が解離している。)

メモ:

  • 自分のトラブルを素材化することを拒否し、メタ正義に居直る悪弊は、いわゆる《当事者運動》の側にもある。 彼らの確保した正当性のアリバイは、絶対にオブジェクトレベルに降りてこない*6。 ▼とはいえ一方で、単なるプロセス重視に淫することもできない。 単なる受傷性は「傷つきごっこ」でしかないし、今は「下からの革命」そのものが、硬直したメタ正義のかたちをしている。
  • ゲーム的な《リアリズム=ナルシシズム》は、点数のメタ回路に依存している。




*1:シンポでは田口ランディ氏が、「おりてゆく」という言い方や、「統合失調症患者によるセクハラが容認されること」に違和感を表明している。

*2:自分もアウトサイダー」という斎藤環もそうだが、臨床の焦点である《プロセス》が放置され、結果物の自意識談義(人生論)ばかりがある。

*3:東京シューレ」や左翼など、「当事者」という言葉に重きをおく言説や実践は、つねに同じパターンを踏襲している(参照)。

*4:統合失調症患者も、「患者」として与えられた居場所から「おりて」こない。 役割固定。

*5:臨床の言説そのものにおいてすら、メタと実務が解離している。

*6:これを、なんとか法哲学のもんだいとして論じられないものか。