「他人にかわって語るのは下劣だ」

クレール・パルネ*1によるドゥルーズへのインタビュー(1986年)より。 『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』pp.177-9掲載、強調は引用者。

  • クレール・パルネ: あなたはミッシェル・フーコーに向かって、こんな発言をしておられます。 「あなた(=フーコー)は、『他人にかわって語るのは下劣だ』という、とても重要なことを教えてくれた最初の人間だ」、と。これは1972年の出来事ですが、あの頃はまだ68年5月の余熱をとどめた時代でした(68年5月について、あなたは今度の本のなかで「一部の分析を読むと、68年はパリに住む知識人の頭のなかでおこったことにすぎないと思われるかもしれない」と書いておられる)。 他人にかわって語るのではない、ということの尊厳こそ、知識人の態度であるべきだ――あなたの発言は、そういう意味だったのではないかと思います。知識人は口をつぐんでしまったと新聞が書きたてている今日このごろですが、いまでもなお、同じ表現で知識人のあり方を定義されますか。

ドゥルーズ ええ、表象=代理(representation)の批判を徹底させた現代哲学であってみれば、他人を代弁することを拒絶するのも当然でしょう。 「なんぴとたりとも否定できない」とか、「万人が認めざるをえない」といった言葉にはかならず虚偽かスローガンがつづくということを、私たちは熟知しているのです。68年を体験した後でも、たとえば監獄をとりあげたテレビ番組であらゆる人の話を聞く、判事、看守、面会に来た女性、一般人など、あらゆる人に話してもらうというのに、肝心の囚人や監獄生活の経験者にはしゃべらせないというのは、ごくふつうにおこなわれたことです。さすがにそんなこともやりにくくなりましたが、それは68年によって獲得された、人びとが自分のために語るという態度のおかげなのです。
これは知識人にも当てはまる。フーコーはこう述べています。知識人は普遍的であることをやめ、特殊になった、つまり普遍的価値の名において語るのではなく、みずからの能力と立場に応じて語るようになったのだ、とね(フーコーによると、この変化は物理学者たちが原爆反対に立ち上がったところに端を発しているとのことです)。 医師が患者を代弁する権利をもたず、医師は医師の立場から、政治問題、法律や産業の問題、そして環境問題などについて語る義務をもつということは、68年がもとめていたような、たとえば医師と患者と看護人を団結させる集団が必要になる状況と同じです。つまり多声的な集団ですね*2フーコードゥフェールが編成した監獄情報グループも、やはりそうした集団のひとつでした。この種のグループを、他人の名において語ることを強いてくる階層秩序型の集団と区別するために、ガタリが「transversalité」という呼び名を使ったわけです。 (略)
さて、それでは他人を代弁するのではなく自分のために語るということは、いったいどんな意味をもつのでしょうか。もちろん、これは誰にでも真実を語る瞬間があるということでもないし、回想録を著したり、精神分析を受ける可能性があるということでもありません。一人称の奨励とは違うのです。そうではなくて、心身両面の非人称的な諸力を名指し、それに挑み、それと戦うということなのです。なんらかの目標を達成しようとこころみても、目的を自覚するには戦いのなかに身を置くしかない。だから、ほかにどうしようもないのです。その意味では、存在自体が政治の色合いを帯びてくるわけです。



以下、メモ的に。

  • 一人称の「じぶん語り」でしかないような「当事者発言」に、私は興味がない*3。 語ろうとすることが、やむにやまれぬ分析であり、巻き込まれた一人としてそれなしでは生きられないような内発的分節でなければ、つながりにならない。 左翼的に「横断性」などと言ったところで、下卑た連帯感のナルシシズムがあるだけだ。
  • 「本人が語る」ことが、臨床プロセスであり、必須の政治的分節であること。 斎藤環上野千鶴子について、「アイデンティティの危機が問題になっているのに、単に脱アイデンティティを言うのはおかしい」とどこかで書いていたが、本当にそう思う*4。 ただ「アイデンティティの危機」は、一部論者が提唱するような「多重人格的コスプレ」ではなく、分節プロセスで引き受ける必要がある。 ここでこそ「実存のフレーム問題*5が、本人の手で支えられる。――上野のいう、「理論はその必要のある担い手によってつくられる」という当事者性が、ここにある(カテゴリーによる抑圧だけでなく、プロセスの危機として生きられる当事者性)。 ▼私は、主体プロセスの政治的危機を問題にしている、なぜなら私自身が、それを恒常的に生きているからだ。そして、「プロセスの政治的危機などない」という顔をして、たんに制度順応的に自己を反復している人たちが耐え難い。そういうカルト的反復に落ち込むことが、とりわけ「ひきこもり」まわりの苦痛構造であり*6、この問題を逃れられる人などいない。 私たちの凡庸な日常は、苦痛構造の反復という形をとっている。 イデオロギーで大文字の変革を起こすことも必要だが、それと同時に、一人ひとりの生きる時間軸の硬直が問題だ。
  • フーコーが問題にしたような、「硬直した権力図式の反復」ではないかたちでの主体化 subjectification。 上野千鶴子の語る主体化には、イマジネールな自己確保しかない。日本の思想には、《主体化のプロセスのあり方》こそが提案されねばならないという臨床趣旨が欠けており、いきなり制度設計や、メタ言説だけになっている。主体の構成過程そのものに潜む政治的要因を無視しない、臨床趣旨をふくむプロセス――それが《制度分析》として提唱されている。分節プロセスが、同時に臨床過程になる。分節の非人称性の度合いに応じて、臨床性が高まる。
  • 精神病理学が、マルクスの労働過程論を参照していないのは、いちど気付いてしまえばあまりに異様だ。 ガタリの「主観性の生産 production de subjectivité」や「動的編成 agencement」も、労働過程の話ではないか。 記号論や脳髄論は、差異や物質のスタティックな研究ばかりで、プロセスとして維持される分節過程をとらえきれていない。 声として支えられる現前性(デリダ)は、労働過程として維持される。――自己言及を扱うのに、形式的な言及構造のみが論じられて、「労働過程が労働過程を問題にしている」という、身体性と時間軸を伴った議論が見られない。 ▼メルロ=ポンティに読みとるべきなのは、その分節過程が身に帯びる政治的緊張感ではないのか。制度性を問題にする彼の身体論は、最初から社会的緊張に引き裂かれている――云々。
  • 医師やアカデミシャンも、「自分のいる場所で語る」ことができる*7。 「当事者」を「弱者」に限定しようとすることにこそ、歪みがある。




*1:対話』で共著者になっている女性。 「ドゥルーズ - 左翼とは何か?」でのインタビュアーも彼女。

*2:ここでは、医師も「関係当事者」だ。「医師は悪者で患者は正義」みたいな言い方だけでは、分析の多声性が維持できない。コスプレの多様性ではなく、分析の複数性が必要なのだ。

*3:調査対象としては必要なのだろうけれど、相手をカテゴリーで区切り、自分は「調査する側」に居直るとき、調査主体のプロセスは、相手を利用するプロジェクトに閉じてしまう。調査対象者は、「ひきこもり」「女子高生」などと物象化される。

*4:というか、上野は「脱アイデンティティ」を言いながら「異性愛女性」というご自分の “アイデンティティ” に固定的に安住しており、完全に矛盾している。 脱アイデンティティは、役割フレームの問題として考えるのではなく、「分節の労働過程」の問題として、プロセスとして考えなければならない。 上野にも斎藤環にもこの理解がまったくないため、議論が混乱し硬直している。

*5:人工知能に関わる「知的問題」である以前に、「プロセスが組織できない」という臨床的・政治的な危機だ。

*6:ひきこもる本人じしんが誰よりも硬直した制度的反復をしている

*7:たとえば、『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』:「本書はもともと検察に提出した意見書である。検察への意見を膨らませて、一般向けに書き直した。研究でも評論でもない。第三者的意見ではなく、現場の医師としての立場の意見である。危険な状況にある日本の医療を分析し、崩壊させないための対策を提案した」(「はしがき」冒頭より)