居場所を守るのは、集団的な労働だ

昨日のエントリーより:

 problematic consensual frames 問題のある《合意や共感のフレーム》
 between existing and emerging frames 存在しているフレームと、生成しつつあるフレームの間



偶発的な出会いやシャッフルが「関係フレームの移行」を引き起こすのは分かりやすいが、もう一つ可能性として必要なのは、みずからを関係当事者と自覚した、内在的な受けとめなおしだ。 ここでは関係の分節が、《フレームの生成》と同義になる*1。 身体性を伴ったこの作業の臨床性をこそ、私は執拗に説明し、実演し続けている*2。 私にとって意味のあるつながりや当事者性は、それでしかないからだ。(私自身がずっと自覚していなかった。「分析なき当事者」というのは、ほとんど形容矛盾なのだ。)*3

これは、「脱構築」の話を、単なる「決定不能相対主義」ではなく、目の前で引き受けるそのつど具体的な一回きりの話に置き換えることになる*4イデオロギー的フレームで正当性を固定することはできないが、かといって、「どちらとも決められない」と観客席に居直ることもできない。 結論のスキゾ的多数性を「雲の上から」メタ的に肯定するのではなく、自分が巻き込まれている関係性を内側から分節し、そこで具体的に決断するしかない。


そこで直面するのが、こういうプロセス重視の《分節=中仕切り=制度分析》*5と、それがお互いの関係や努力に介入しあうことの関係だ。 「生産過程に介入すること」は、結果物へのしたり顔の論評よりも協働的な作業になるが、そのぶん、より洗脳的で壊乱的な介入になってしまう。 制度分析は、固定されたフレームの解体という意味では脱洗脳の作業だが、それ自体が介入的な洗脳にすり替わる危険を常に伴っている。*6


これは、単に抽象的なテーマではない。 私たちはお互いの努力に介入しつつ、意思決定の難しさをどうすればいいのか。 ▼たとえば誰かが嫌がらせをやめてくれないとき、相手はこちらとの関係で分析的な配慮を拒絶している。 やめさせるには暴力(強制力)しかないが、それはこちら側でも、分析という “人文的” 努力を停止することだ。――どの段階で、どのように分析を停止すればいいのか、その決断自体に分析と手続きが要る。(ヤクザ的連帯の必要性が問題になるのもこの地点だ。)
ほとんど全ての左翼は、権力について人文的に語ってみせるのは得意だが、自分が必要とし、生きてしまっている権力をマネジメントする能力がない。 だから、平気で相手を支配する。 「私は正しいことを言っているから、支配する権利がある。これはクレームではない、正しい主張だ」云々。


制度分析とは、「自分が生きてしまっている権力の分析」でもある。 これこそが、ひきこもりの現場に必要だ。 「自己責任」と「全面保護」の間を往復するのではなく、お互いの強制関係がどう絡み合っているかを、具体的なディテールをもって話し合うこと。ひきこもり続けることは、意識的選択とはとても言えない状態でも、家族に対する非常に暴力的な強制行為になっている場合がある。いわば、手続きなしに私的保障をぶんどり続けること。それは、単におカネだけの問題ではない。ひきこもるのに必要な場所と時間は、肉体的・心理的な集団労働によって維持される。公正に考えるなら、関係者の一人だけが負担を免除されることはできない。(逆に言うと、第三者が家族内の納得に介入することも難しい。)


集団的な労働フレームの脱構築と組み直し。 私はそれを、至近距離の課題として論じている。 これは、ひきこもっている間だけの問題ではないはずだ。



*1:ガタリジャン・ウリが(そしておそらくメルロ=ポンティが)動詞形でいう《制度化 institutionnaliser》がこれだろう(参照1)(参照2)。 自分をパチンコ玉みたいに実体化し、その主体が操作対象として制度を云々するのではなく、語る私自身が《言語という制度》を身体的に生きており、そのフレームが私の生命活動(主体性の生産)そのものとなっている。 制度化は、言語の生をていねいに生きることと重なる。

*2:残念なことに、それは私が周囲の人間関係から排除される理由になっている。

*3:私は責任と正義の課題を、《当事者的・内在的な分析》と同一視している。これはそのまま、《臨床》を中心にすることだ。知的なだけの空中戦は、語る自らのプロセス的当事者性を抑圧している。固定された生産態勢に居直っている。▼規範理論との関係において、この理解の射程を測る必要がある。

*4:脱構築の話を、《伝達》の問題系ではなく、《労働過程》の問題系として受けとめなおすこと。

*5:これは、ラカン用語にいう《象徴界 le symbolique》を、スタティックなシニフィアンの体系ではなく、その場その場に生じる課題との関係で引き受けなおされる労働過程(生成中の分節過程)として理解することを意味する。 象徴界とは、しんどい労働の営みだ。 ▼東浩紀は、「象徴界は弱まった」などと言うが、弱まっているなら自分で仕切り直せばよい。 また、父権が強すぎて息苦しいなら、それも内側から仕切り直せばよい。――脱構築象徴界をめぐる理解を、労働過程を中心に整理し直す必要がありそうだ。

*6:一言でいえば、制度分析と、集団的意思決定の関係はどう考えればいいのか。 「臨床過程と政治の関係」と言い替えてもよい。 ▼この問題構成を、フロイト的・ラカン的な精神分析の場合でも考えてみること。 分析家とクライエントは、お互いの意思決定においてどういう関係性にあるか。