背景的な結果物の時間から、生産の時間へ

  • 専門性が、尊厳の配給装置になっている。 カルトのように。
  • 「自分のことは自分が一番よくわかっている」という、勘違い。 「自分カルト」は、形式的に反復される内容のない専門性。 誰からも求められない専門性。
  • 斎藤環は、ひきこもる人を「自分カルト」だという。非常にうまい記述でありつつ、斎藤氏ご自身は、これをあくまで「結果物」として記述するだけで、そうした主観性の制作過程を主題にすることはない。人の関係性についても、成就した関係についての化学を語ることはあっても、その関係がお互いの生産過程の反復であり、繰り返される主観性のパターンが関係性のパターンになっていることは主題化されない。それゆえ彼は、「仲間」の制作過程を主題化できない。 ▼あくまで事後的になされる「結果のスタティックな記述」は、臨床の一部でしかない。そして、そう語る臨床家の生産過程は、その人の営む関係性のパターンを表現している。斎藤氏は、「結果の記述」にみずからの生産過程を固定している*1。 しかし、社会参加の臨床家としては、内側から着手される、「これから生きられようとするプロセス」の主題化が必要なはずだ*2
  • 構成された知識や理解(結果物)ではなく、分節プロセスそのものに力点を置く臨床論が要る。 グリニッジ天文台の背景的な時間軸ではなく、取り組む各人の《つくっている時間》の、内側からの構成。 これは、単に背景的な時間軸が複数あるということではない*3。 むしろ、ぼんやりした時間軸はすぐに収奪されてしまう。 《つくる》ことの勤勉さに応じて、時間軸が背景から引き剥がされ、柔軟な自分の時間を生き始める。
  • 上野千鶴子らの当事者論は、社会生活の危機をカテゴリー(アイデンティティ)でしか考えていない。それは、カテゴリーへの特権化や居直りで終わってしまう。これでは、プロセスとして経験される危機を主題化できない*4。 議論構成が、カテゴリー中心から、プロセス中心に移らねばならない。 ▼カテゴリー中心の当事者論は、戦術上の必要の一端を成していることは確かでも、「構成する時間」に照準する当事者論の欠落は、とても自覚的に選び取られたものとは言えない(それゆえ上野千鶴子は、主体の構成に関しては、簡単に父権的な精神主義を口にしてしまう)。 カテゴリー的な当事者論は、《構成する時間》の主権から問い直されるべき。概念枠は、あくまでプロセスとして生きられる。労働過程のないところに概念はない。
  • 必要な勤勉さは、順応主義ではない(それはマッチポンプ的な自殺行為であり得る)。 むしろ、専門性そのものを問い直す姿勢が要る。 そして、専門性を意味ある形で問い直すには、ベタな専門家とは違う切り口で、強い力が要る。 問い直しは、「力がなくてよい」ということではないし、「勉強しなくてよい」ということではない。
  • 専門性は、順応の問題でもある。 順応問題の専門家が、ベタな順応しか知らないというギャグのような状態がある。 グリニッジ標準時のような、背景的な規範に対して、 (1)ベタに順応するか、 (2)単にないがしろにするか、その両極しか見当たらない。 置かれた状況を内側から分節する時間のレベルを上げてゆく、しかもそれはリアルタイムの交渉・契約から逃げられない――こういう点を織り込んだ上で臨床や社会思想を論じている人が、まったく見当たらない。 ▼社会思想は臨床の時間を知らない。臨床の時間は、今までのところ集団的意思決定の問題に取り組めていない(参照)。
  • 勤勉さや専門性が構成される時間の、その正当化のスタイルを問題にしている(私はそれを、「生産態勢」など、生硬な言葉で表現してきた)。 それは、社会性の構成のされ方を問うことに等しい。 「構築主義」や、フーコーの名前を連発する人たちは、「結果物の構成」の話ばかりをして、《構成》が労働過程であることを見ない。
  • 主観性は、労働過程として構成され、プロセスそのものとして生きられる。 《つながり=コミュニティ》は、固定された結果物として「存在する」のではなく、あくまで《プロセス》として生きられ、生き直される。 関係パターンは、再生産されると同時にその都度すでにズレており、思惑通りのパターン踏襲が関係を保証するわけではない。
  • 臨床の時間 = 内側からの構成 = 現象の再構成 = 素材化




*1:臨床家としての生産も、「オタク的な嗜癖対象の生産」というパターンを踏襲している。中井久夫的なアフォリズムなど。

*2:歴史の中につねに同じ構造を見つけてしまうジジェクもそうだが、ラカニアンには、内側から生きなおされる臨床の時間がまったく見えていないように見える。

*3:既存のポストモダン論は、ほぼすべて「結果物の多数性」ばかりを論じている。本当に必要な論点は、制作過程の内発性や自律性だ。

*4:いわば、主観性(労働過程)のフレーム問題ともいうべき危機。このテーマについては、ジャン・ウリガタリなどの「制度を使った精神療法」のほか、『“かたり”と“作り”―臨床哲学の諸相』掲載の河本英夫の論考(「自己組織プロセスとしての制作」)などを参照。