精神保健と、順応を要求する実務

精神保健の専門性において、《制度順応》が自己言及的な研究焦点になっていないのは異様すぎる。 専門家を養成するプログラムじたいが、ベタな順応主義を要求している。 とはいえ逆にいうと、「創造性を発揮すると、仕事をしたとは見なされない」ポジションを、個性の神話で軽く考えることはできない。
多くの仕事は、「責任の位置づけ」を固定することで成立する。 それは「使われる側」に顕著とはいえ、経営者は利潤追求の道具だし、医師は治療の道具。 ミッションはポジションが決めている。


精神保健においては、実務的な順応主義が「苦痛のマッチポンプ」であり得る。 あるいは社会復帰支援は、「奴隷になれ」という命令かもしれない*1。 ▼たとえば、複雑さをきわめる紛争処理には、本来はたいへんな創造性が必要なはずだが*2、最難関とされる司法試験ですら、「求められていることを書けるかどうか」だけが問われる。 「難しい試験だから、創造性が要る」のではない*3。 実務は、創造性の禁欲で成り立つ。


生産態勢を固定することは、責任の所在を問い詰めるロジックを固定することだ。(仕事の現場では、ルーチンワークが崩れれば「お前がミスした」となる。その問い詰めは、仕事のミッションを固定することで起こっている。)――逆にいうと、「生産態勢をプロセスとして問うこと」は、責任を考え直す作業になる。(生産過程論は、法思想や倫理を巻き込む)


一方では、「達成感ゆえに元気になれた」ということもある。 強迫的な制度順応は、政治的にも臨床的にも害であり得るが*4、ゲーム的達成感を排除することで、ぎゃくに抑うつ的にもなり得る(適切な制度的没頭経験は、精神の健康に必要に思える)。
自分たちのゲームを検証し、組みなおす制度分析*5では、順応や「個性」とはべつの、分析の創造性が問われている。 しかし、「点数」や「作品」へのフェティシズムを排除したときに、身近な関係性はどうマネジメントされるのか。



*1:たんに順応主義的であることは、労働市場においても自殺行為に思える。 かろうじて順応できた方々も、過労状態にあるのではないのか?

*2:双方の言い分や状況証拠、歴史的文脈や規範理論まで理解したうえで、公正な判断を形にする…

*3:創造性を発揮すると落とされるらしい

*4:そこには、《入門》のモチーフが全くない。餌をまいて嗜癖を待つだけだ。

*5:ここで問題にしている「制度分析」は、ジャン・ウリ、フェリックス・ガタリ三脇康生らの仕事に関連する文脈であり(参照1)(参照2)、経済学の「制度分析」とはひとまず関係ありません。