復帰状態の再生産過程

リオタール『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))』が「正当化のありかた」を論じる趣旨は、以前の私は、「大きな物語/小さな物語」という枠でしか見れなかった。 しかし、「小さな物語しかない」というこの発想じたいが、「物語に頼って正当化する」というスタイルでしかない。 なにか物語に頼るのではなく、「どういう正当化スタイルがとられているか」じたいを、自分たちの経験を素材化しながら検証してみる、そういう正当性の生きなおされ方が必要ではないのか。 それは、商品がそうであるような「アリバイ作り」とは別の社会参加になっている。 自分の社会性を「アリバイ作り」と勘違いする浮足立った作法ではなく、検証の作業そのものとして social action に参加すること*1


正当性を確保する作法として、「体験を素材化するプロセスを擁護する」というスタイルが、どうしても要る。 社会生活の臨床を考えるために。 「復帰するために」ではなく、復帰し続けるために。 ひきこもっていようがいまいが、社会生活は、復帰状態のあるパターンでの再生産過程そのものだ。 同じようなプロセスがくりかえし生き直されているのであって、静態的な状態像が固定して実現しているのではない(そのように見えること自体が病んでいる)。 「社会参加」をスタティックに理解している時点で、抑圧とウソがある。

    • なされた社会的行為を記述したところで(社会学)、記述している本人が「ディシプリンに従っている」と自己確認し、学問コミュニティとの承認関係が再生産されるのみで*2、その記述行為には臨床的趣旨がない。



ひきこもっている状態は、いっけん自由に見えて、じつは硬直した意識のパターンを繰り返すのみ。 厚労省の「ひきこもり」定義は結果的な状態像にもとづくが(参照)、臨床の焦点は、主観性の再生産の過程にある。 これは、俗流若者論的な精神論ではなく、苦痛をプロセスとして、「意識の再生産過程」として考察している。 つまり、ひきこもりの “病理組織” は、スタティックな細胞片ではなく、時間軸をもった労働過程のスタイルにある


とはいえ、関係と主観性がどう生きられていたかを検証しなおす当事者化*3=素材化は、それを引き受けた本人を、あまりに「曝された」状態にする*4。 私を含め、これを生き抜こうとした人、そこでつながりを作ろうとした人たちは、激しい受傷性に苦しんできた。 今後は、(ナイーブな分節化の工程だけでなく、)政治的・法的な弁護活動のつよさが要る。
《素材化》は、問題化の実演において、問題化のスタイルそのものを擁護する。 それは取り組む者にとって、臨床の核でありつつ、このプロセスそのものへの弁護活動なのだ。 解釈ルーチンを再起動させるだけの弁護ではなく、参加状態の再生産態勢を変えてゆく趣旨をもつ、プロセスの内在的変化としての弁護活動*5
「変える」という営みは、分節そのものの必然的強度と、それをもたらす創造性なしにはない。 イデオロギーを連呼するだけの改革派は、問題化のプロセス自体がルーチン化し、動きを失っている。 ご自分たちの「社会復帰の再生産」がパターン化し、同じ論難の再生産に陥っている。(戦術上、そのようなパターン固定が必要な局面があることは絶対に無視できないが、現状のあまりの硬直ぶりは、そのような戦術上の選択ですらない。)



*1:この再検証活動そのものを、「止まっているものを動かす」という意味で「芸術」と呼んではいけないのだろうか。 永瀬恭一氏の試み(参照)を、わたしはそういう文脈で理解している。 (美術が語られる現状は、「結果物と、それをやっている作者へのフェティシズム」に支配されすぎているように見える。)

*2:社会学という営みの再生産過程」において、メタ言説のディシプリンを強化したところで(参照)、ローカルな正当化作法をベタに信奉したにすぎない。 必要なのは、そのベタな生産過程をもういちど素材化することであって、「特定の正当化作法を絶対化すること」ではない。 ▼「ベタな厳格さ」への回帰は、80年代以降の反アカデミズム(相対主義)へのリアクションに見える。 「単なる相対主義」は、じつはひどく抑圧的なのだ。

*3:「当事者化」というアクチュアルな分節なしに、古典的実体としての “当事者” に言及することはできない。 ここでは、言及を行なう者じしんの責任関係と処理過程が検証される。 プロセスとしての言及が、生き続けられている当事者性の一部を成す。(にもかかわらず、知識人は「雲の上から講釈する」だけで、いわば「知識人言説の生産過程」そのものが、なかなか論じられない。)

*4:論じている自分は、分節工程においてこそ徹底的に曝される(私は公共性をここに見ている)。 「ワタシは当事者なんです」という実体的表明は、分節工程よりも、結果物の自意識レベルで “晒されて” いる。――分節工程として、地べたから考え直す労働過程なのか、それとも単に結果物としてのショーなのかは、《問題化》の作法として決定的にちがう。 ▼いわゆる「当事者本」は、往々にして後者(差別主義的な見世物)でしかない。

*5:制度という言葉をひとたびメルロ=ポンティ的に理解すれば(参照)、創造性は、「政治性」という言葉に置き換えられるように思える。 制度順応とは別の、いわば《制度化》活動としての創造性=政治性。 そのような営みが、集団的意思決定に向けた政治性を持てないでどうするのか。 傷つきごっこに淫するわけにはいかない。