結果と過程
「制度を使った精神療法」の中心人物ジャン・ウリの講演、「表現活動とラ・ボルド病院」(2005年8月6日@東京医科大学臨床講堂)*1より(強調は引用者):
私は、アール・ブリュットに非常に興味を持った人として有名な、画家のデュビュッフェと1948年に会いまして、それ以降関係を常に持っていたわけですけれども、それでもアール・ブリュットが素晴らしいと私は書いたことはないのです。
1950年に私は “La conation esthétique” 「美的努力」*2という博士論文を書いたのですが、実はそこで書いたことは、アール・ブリュットの考え方は、あまりにも単純すぎる、あまりにもナイーブすぎる、素朴すぎるという批判だったのであります。 (略)
レクリエーションという概念、創造という概念ですけれども、それは精神医学の総体にかかわることなのであります。 すなわちそれは、対象を固定化して物質化してしまうということに陥らない観点をもつということであります。 公のロジック、国が持っているようなロジックよりも、皆さん方は複雑なロジックを持たねばなりません。
それをここで「詩的なロジック」と呼んでみたいと思います。 『見えるものと見えないもの』という思想書を出版したモーリス・メルロ=ポンティという現象学者がフランスにおります。 彼が言った言葉で、野生的な本質(Wesen)という言葉がありますが、未だ分化されていない状態で本質的なもののことを、メルロ=ポンティはこの言葉で描いているわけであります。
そこで問題にされているのは、人が何を言ったという内容ではなくて、人が言うに至った内容を可能にしたものであります。 その背景にあって言うことを可能にしたものは何なのかということを問題にしているわけであります。 (p.44)
結果としての内容や作品をいきなり分析してどうこうではなく、それを作り出す《プロセス》が問題になっている。 表象分析ではなく、「表象を固定化してしまうもの」を避ける努力がある。――私はここに、ひきこもりに特有の「再帰性」・「実体化」への取り組みのヒントを見ている(ヒントというか、それそのものだと思うのだが)。
結果的な表象を分析するのではなく、表象を可能にするものを柔軟に、自由にすること。 いきなり既存制度への順応を目指すだけでは、ここのモチーフは吹き飛んでしまう。
現象学において、意識の対象面のノエマ、意識の作動面のノエシスというものがあります。 さらにメタ・ノエティックな活動、ノエシス的活動のメタのレベルにある活動、そこに着目していただきたいと思います。 (p.44)
何かを意識の対象にして、それを構成する作動面を「ノエシス」と呼ぶだけでなく、構成する活動自体を検討と関与の対象にすること(そこで関与の手続きとして、制度分析*3が必要になる)。 対象(ノエマ)としてのその場や自己は、ある一定の役割パターン*4で機能しており、ノエシス的活動はその機能を「高めよう」と奮闘している。 作動形態(制度)が決まっており、その固定に権力がある。
社会に「順応せよ」という方向しかないなら、自分も、その自分に対象化される人や物も、再生産のパターンで硬直してしまう。 そこで、「自分や他者を役割として固定する」あり方を検証し、リアルタイムに組み直す。 それは内発的な必要に導かれた労働過程であり、創造の要因を帯びる*5。
生きてあるプロセスが、柔軟さと内発性をつねに試みるのでなければ、生き延びようとすることは、強迫的な順応か、やっつけ仕事でしかなくなる。 単なる石や動物には戻れない。