市場と過程

ジャン・ウリの講演「表現活動とラ・ボルド病院」より(強調は引用者):

 マルクスが「商品」という問題を深く考察しましたけれども、そのような商品として表現を売り買いする、値段をつける、そのようなことがあっていいのかどうか。これは私は言い過ぎではないと思いますけれども、それは作品というよりつくった人を売っているということにすらなるのではないかと思っています。
 ですので、作品を売り買いするということについて、私は違和感を持つわけであります。そもそも創造することは、何度も再生産されうるようなものではないからであります。 (『日本芸術療法学会誌』vol.36 no1, 2、p.44)



日本語の文脈で言えば、労働力商品も含めた「商品市場」と、「やりたいこと」との葛藤が関係すると思う。


治療として、何かに取り組む創造過程を大事にしたとして、その結果は売り物になるとは限らない*1。 逆に言うと、創造過程を問題にしない順応主義の《成果》こそが、「売り物」として流通しやすい(労働力商品としても)。
臨床的-政治的過程として「創造」を問題にすることと、その成果が他者から欲望される物になるかどうかは、別の課題になる。 また、「これは統合失調症患者の作った作品です」と銘打って商品化するのは、何を商品化していることになるのか(その商品化の制度は、何を固定化しているのか)*2


“健常な” 人が、作品価値を高めるために “異常” を装うかもしれない。――これはひきこもりでは、「役割理論」の話になる。 病気でもない人が、「ひきこもっていた」というだけで特別扱いされるべきなのか。 その発言内容は、ほかの人と比べて特別な価値を持つのか*3


狂気やひきこもりで焦点化されるモチーフが、“健常な” 人たちを逆照射する(分析的に論点化する)。 そういう取り組みを臨床上必須の内在的契機と考えなければ、ひきこもる人は単に脱落者であり、社会復帰には「疑問なき順応主義」しか待っていない*4。 私はそこでこそ抵抗している。――この表明がサルトル的な実存主義とは違うところに、「制度を使った精神療法」のキモがある。 主観的なものの柔軟かつ分析的な構成が、単なる実存主義や政治ごっこではなく、臨床上の最も重要な契機であること。
「疑問なき順応主義」は、ひきこもる主観の硬直メカニズムをまったく考えていない。 生きてしまう亀裂(ニヒリズム)を、積極的に生きる姿勢がない。 どうしても湧いてしまう疑問をねじ伏せるしかないなら、意識はまた虚無感に硬直する。


ひきこもる人を特別扱いするかどうかではなく、個々の状況を一つ一つ検討できるかどうか。 その分析労働がつねに新しく生き直されるのでなければ、メタ的理論内容を押し付けても何の意味もない。 「内容」が正しくとも、臨床上の課題を裏切っている。――そのことに、当事者側の順応ナルシシズムが加担したりする。



*1:ここではむしろ「売り物にするべきではない」という話になっている。

*2:逆に言えば、制度分析がつねに機能していれば、何かが商品化されることを怖がる必要はないはずだ。 ▼教条的な左翼イデオロギーの「資本主義批判」と、「制度分析(権力関係の内在的分析)」との、小さく見えて決定的な差異を見逃しては、ここの話はまったく分からなくなってしまう。

*3:いわゆる「当事者発言」は、アール・ブリュットとしての価値を持つのか。

*4:ひきこもりを「全肯定」する左翼教条主義は、それ自体が「疑問なき順応」を要求している(参照)。